光り輝く、兒童(こども)のような、その瞳で






戯家の愚人 ― 曇天後ハ晴天続キ・後 ―













――やっとだ。
この一年待ちに待って、ようやくこの日を迎えることができた。

逸る気持ちを抑えきれない、そんな曹操の足取りが軽く、そして早まるのは仕方の無いことといえた。
楽進と夏侯淵は早足でその後を追う。
曹操と二人の身長差は随分ある、ということだけは付け足しておこう。
つまり、本人は気づいていないが、二人を早足で歩かせるほどの速度で曹操は歩いているのである。
そして程なく、牢への入り口が見えてきたと言うことは当然と言えば当然であった。

階段を下り、戯が入っているという牢の正面まで歩を進める。
中を見れば、確かにらしき人物が背をこちらに向けながら石畳の上に横になっていた。
無造作に一つに束ねられた髪はかなり乱れていて、背中の半ばまであるそれは殆ど絡まっている有様だ。
だが、肝心の顔はこちらからでは何一つ確認することができない。
不意に、楽進が声を上げる。



「戯!起きろ!!」



しかし、戯はそれに反応もせず、寝続けている。
再び楽進が声を上げるが、聞こえているのかいないのか、全く応答は無かった。
無理やり起こしてやりましょう、そう言って痺れを切らした夏侯淵が動こうとするも、曹操はそれをいいと言って止める。
そして、今度は曹操が戯に言葉をかけた。



、俺はそなたと話がしたいのだ。伝えなければならぬ、そなたの異母兄(あに)からの言葉もある」



その曹操の言に、今まで何の反応も示さなかった戯がのっそりと起き上がり、振り向く。
そして壁に背を預け、立てた右膝に腕を預けて、格子越しに立っている正面の三人を見据え口を開いた。



「騒々しいな。私が騒げば文句を言う…その当人たちが騒ぎ立てるのか?世話が無い。いい迷惑だ」

「!貴様、口を慎め…!!」



明らかに形相を変えて言うのは夏侯淵である。
曹操がそんな夏侯淵を制止するのと戯が大きな溜息を吐いたのはほぼ同時だった。



「で、私と話をしたいという奇異な奴は誰だ?」

「俺だ」



間髪いれずに曹操が応える。
そして、戯の瞳をじっと覗いた。
その瞳はまるで新しい玩具を与えられた兒童(こども)の様に輝いていた。
は鼻で笑いながら片眉を上げてみせると、その瞳を更に覗き込むように見返す。
無言のまま、名を名乗れ、とその瞳に込めていた。



「俺は曹操、字は孟徳。名ぐらいは聞いたことがあるだろう?」



その意を即座に読み取り、曹操は僅かに身を乗り出すようにして名乗る。
はそれに満足したように口元に笑みを浮かべた。



「それで、その曹公様が私に何の話があると?」



元々知っていたという色を見せながら戯がその先を促す。
そんな戯の、余りに礼儀知らずな言動の数々に、既に夏侯淵の頭には十分すぎるほど血が上っている。
それに引き換え当人である曹操は全く気にしていなかった。
の問いに曹操がゆっくりと口を開いた。



「話、というよりな…俺は、そなたを引き取りに来たのだ」



曹操の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
それには、その場にいた全員が唖然とした。
無論、その全員には戯も含まれている。
は曹操を睨むように眉根を寄せた。
しかし、曹操がその程度のことで今更気にする筈も無い。
笑みを浮かべたまま曹操は戯に向かって続けた。



「そなたの異母兄から、妹を頼むと言われてな。何より可愛がっていた部下の遺言だ、守らぬわけにもいかぬだろう。だから」
「ふざけるな」



曹操の言葉を戯が遮る。
そして、そのまま続けた。



「志才の遺言だかなんだか知らないが、私はお前の情けなど受けるつもりはない。分かったらさっさと帰るがいい、暇な身でもあるまい」

「貴様!口を慎めと言ったのが分からぬのか!?生かして帰さぬぞ!」



の余りの言いように、とうとう堪忍袋の緒が切れた夏侯淵が、今にも目前の鉄格子を壊さんばかりの勢いで怒鳴りつける。
しかし、当の戯はそ知らぬ風で曹操をただ睨むようにして視線を向けるのみだ。
そしてその先の曹操は、ただ涼しい顔をして夏侯淵をなだめていた。
片や楽進はといえば、こちらも夏侯淵同様かなり頭に血が上っている様子ではあったが、そこは何とか抑えているようだった。
再び戯に視線を戻した曹操が口を開く。



「俺の情けは受けぬ、か…ならば、俺の下へ仕官せぬか?」



そう曹操が言い終わった直後、戯は不快そうに片目を細めた。
そして言う。



「それこそ見当違いというものだ…ふざけているのか?」



眉根を寄せた。
同時に曹操のその言葉は、戯の心の中の沈めたままにしている思いを、まるで池に投げ入れた石がその底に沈んだ泥を巻き上げるが如く、表層へと浮き上がらせた。
そして長く沈めていたその思いは、戯にその先を続けさせた。



「何を以って私に仕官させる?何を以って私を求めるというのだ?私のどんな才を己にと求める?人を不快にする形か?人を侮辱する口か?それとも人を蔑むこの瞳(め)か?何を以って私を求める?女でしかない、この私を」



甚だ可笑しい。
そう、言外に含んでいた。
曹操が、ふっと笑う。



「――女でしかない、か。そんなものは俺にとって何の障害にもならん。俺が求めるのは今、目に見えているそなたではない。今そなたを纏っているモノを求めているのではない。纏わせしめる根本のものが欲しいのだ、そなたなら分かるだろう、この意味が。そう、その瞳の奥にある輝きだ、その心の奥底にある光だ。泥にまみれても尚、輝き続けるその光が欲しいのだ。真の戯が欲しいのだ。仕官しろ、。俺の、この曹孟徳の下へ」



曹操は戯に差し伸べるように手を伸ばした。
それは格子を抜けて牢の中にまで至っている。
同時に真摯な、笑みの消えた曹操のその顔には、しかし輝きが満ちていた。
は、曹操を睨む。
気を抜けば吸い込まれてしまう、そう思った。
そして漸く、戯は一度大きく息を吐き出すと、呆れたようにして言う。



「寝言は寝てから言え、仕官などしないと先ほども言った。何度言われても同じことだ、さっさと立ち去れ」



揺らいでしまいそうな自分の心を誤魔化すように、戯は瞼を閉じながら顔を逸らした。
話すことなど何もないと言いたげに。
曹操は、そんな戯をただ見つめていたが、やがて徐に口を開いた。



「…ならば今日のところは仕方がないな。文謙、を釈放してやれ」



さらりと言い放つ。
楽進、そして夏侯淵の二人は目を見張った。
も同様にして、視線を曹操に再度戻す。



「な、何を・・・」
「主公!?」


うろたえる楽進と夏侯淵の声が重なった。
曹操は気にせず、ただ楽進にもう一度告げる。



を釈放してやれ」



雑事を頼むかのごとくの曹操に、たまらず楽進が声を上げた。



「なりません、主公!この者の刑期はまだ残っております!それを」
「聞こえなかったのか?これは命だ」



曹操は楽進に視線だけを向けながら、その言葉を遮り言い放った。
そして、更に続けた。



を釈放しろ」





その声は、静かでありながら威厳に満ちていた。
曹操の横顔を見ながら、僅かに心を落ち着かせた戯は内心、職権乱用だ、と思いながら同時に思う。



「(この男(ひと)は一体何を考えて…わからない男だ……だけど、まずい)」




多かれ少なかれ罪を犯して捕まり処分が下ったにも関わらず、それが正しく執行されずに戻されたとあれば、世間は疑惑の念を抱くだろう。
役人に、軍に、統括している曹操自身に――。
そして、少しでもその事実が漏れれば噂として瞬く間に広がっていくのは火を見るより明らかだった。
まして、それを促したのは曹操本人。
悪い噂ほど、広まるのは早い。
は、自分が一年前までどれだけ悪評高く噂されていたか知らないわけではない。
寧ろそれは、戯自身が仕組んでいたことなのだから知っていて当然なのである。
自惚れから言うのではない。
このままでは、自分のしていることに意味がなくなってしまう。
それでは非常にまずいのだ。
そう、戯は内心焦り始めていた。
そんなこととは知らない曹操が楽進に向けて言う。



「責任は俺が取る」



その、放たれた言葉が牢内に木霊した。
それから間もなく、諦めた楽進が鍵を持て、と兵に声を上げる。
間髪入れず戯が曹操に向かって言った。



「お前は何を考えている?そんな事をすれば世の人間が何と言うか分からないわけでもあるまい。これで、私に恩でも売ったつもりか?そんなものでこの私が仕官するとでも?無駄なことだ」



曹操が楽進の方に向けていた顔を戯に向け直す。
そして、口を開いた。



「俺が世の人間に何と言われようと気にせぬ、というのは、そなたも気づいているのではないか?そなたと事情は違えど、同じよ。世の人が何と言おうと俺が成したい事をするまで。その道の上に、偶々そなたの釈放というものがあったまでだ。そなたの言うことなど聞きはせぬぞ、。しかし、俺とて抜かりはない」



そこで一度区切ると、曹操は微笑んだ。



「安心して家へ帰れ、



その言葉と表情に戯は衝撃を受けた。
視線を外す事ができなかった。
その、曹操の瞳の奥から読み取れること――――



「(この男は…)」



見透かしている。
――少なくとも、私が何をしようとしているのかを。



不意に、格子の向こうの三人が、鍵を手にしてやってきた兵へと視線を向ける。
ただ、戯だけが依然として曹操を見つめていた。



「戯、出ろ」



鍵を受け取った楽進が格子に掛けられた鍵を外し、入り口を開け放って言う。
視線だけを向け、動こうとしない戯に楽進がもう一度言い放った。



「戯!出ろ」



渋々というように、戯がその重い腰を上げる。
同時に夏侯淵が動いた。
が小さい入り口を屈んでくぐる。
体を起こせば、左に楽進、右に曹操、正面右に夏侯淵が立っていた。
曹操が戯の右手首を掴む。
そして、懐から手枷の鍵を取り出した。
そんなところから、と戯が思っていると、いつから持っていたのか気付いていなかったらしい、楽進と夏侯淵がぎょっとした表情を浮かべた。
曹操自らが罪人である戯の腕を掴んでいることとその鍵の意味に気づいて、どちらともなく再び己の主君に声を上げるがそれを曹操は制止して鍵を差し込んだ。
はただ外されていく手枷をじっと見つめる。
その手が左手首に伸びた。
冷え切った肌の触れている部分に、事の他高かった曹操の体温は戯に熱いと感じさせる。
きっと、体を動かしてきたのだと戯は思った。
こちらに向かっていたのだから馬でも駆けてきたか。
そこまで考えて益々分けが分からなくなった。
今日初めて会う、悪評しかない女に何故そこまでするのか。
ただ異母兄に遺言を託されただけの女に、何故そこまでするのか。
それが理由ではないはずだ。
ではなぜ?



わからない――



音を立てて枷が石畳に落ちた。
手枷の痕のついた手首をさすりながら戯は顔を上げ、五寸―12p―ほどの身長差がある曹操の顔を見上げる。



「礼は言わない。お前が勝手にしたことだ。せいぜい、その”成したい事”が成就する様頑張るんだな」

「ほう、応援してくれるのか?それは有難いな」



そう言って微笑む曹操に、戯は失笑してから踵を返した。
楽進の左を二、三歩、通り過ぎたとき不意に左肩を掴まれる。
無理やり後ろを向かされた。
その時、戯の視界の端に見えてきたのは、夏侯淵だった。
そして、同時に彼から繰り出されんとする右拳が見てとれる。
曹操、楽進は夏侯淵の後ろに立っていた。
夏侯淵を制止しようとする曹操の声が牢に響く。
己の左顔面に向かってくる拳を確認しながら、戯は夏侯淵に向かって何ともいえない表情を見せた。
自嘲するような、謝罪するような、羨む様な何とも言えないものだった。
夏侯淵のこの行動を読んでいた様な節さえ感じられた。
一瞬のことだった。
鈍い音を立てて拳が入るのと、夏侯淵がその戯の表情に驚き、目を見張ったのはほぼ同時である。
は、たまらず床を転がった。
それから徐に上体だけ起こすと、その口の端から赤い筋が一筋流れた。
夏侯淵は、ただ戯を驚きの目で凝視する。
だがそれは、先程の表情のせいではない。
が一瞬だけ顔を引いて、夏侯淵の拳の威力を僅かに殺したからだった。
夏侯淵のうしろでそれを見ていた楽進が、驚く。
の受けた傷が軽かったのと、同時に威力を殺したというのが分かったからだ。
曹操も同様だった。
その瞳は更に輝いたようだった。



「結構な餞別有難く。ではな」



立ち上がり際に戯はそう言い残すと、ひらひらと手を振りながらその場をあとにした。
その表情は既にいつものもので人を嘲るものだ。
残された三人は、ただ戯を見送る。
しかし、殴り際、戯のあの表情を唯一見た夏侯淵だけが、心に蟠りを残していた。
後に、常人離れした能力を見ることができた、と言って夏侯淵が曹操から褒められるのは暫くしてからの話である。




















人通りの少ない区画に入れば、帰る家は直ぐそこだ。
道の両脇には、誰が掻いたのか白い土手が出来上がっていた。
その間を歩きながら何刻か前の事を戯は思い出す。



「(どうかしている、あんな、自分の感情を少しでも曝すなんて)」



異母兄が死んで既に一年も経つが、未だに心は落ち着いていないのだろうか。
それとも、その兄が仕えていた曹操という男が思っていた以上の男(じんぶつ)だったからだろうか。
――いや、それ以上にきっと…。
その男に、今日初めて顔を合わせた男に、あそこまで自分を暴かれたせいだろう。
そのせいで、自分の心が揺らいだからだ。



『女でしかない、か。そんなものは俺にとって何の障害にもならん』



――あの言葉に期待した。



『真の戯が欲しいのだ』



あの言葉を信じたいと思った。



『仕官しろ、。俺の、曹孟徳の下へ』



あの言葉に縋ってしまいたかった。
だが、それはならぬ、と戯の心の奥のさらに奥で何かが告げる。



「(人を易々と信じるなど、ましてその人に縋るなどそんなこと)」



曹操という男がどれだけの男(じんぶつ)か分からぬわけではない。
ただ、その上限の図れぬ男であることは確かだ。
大きすぎるほどの男だ。
だから、あの表情もあの瞳もあの言葉から漏れ出す輝きも、もしかしたら偽りかもしれない。
そう思わなければ、今の自分を常の自分に戻すなど出来よう筈もない、と戯は思った。
真実、あれが飾らぬ曹孟徳、その人であると気づいてしまった自分を。
あの輝く兒童の様な瞳こそ曹孟徳の根本にあるものなのだと知ってしまった自分を。
あの男なら、この腐った世を本当にどうにかしてくれるかもしれないと、心から惹かれてしまった自分を。
歩きながら、戯は己も知らぬ間に握り拳を作る。
の晴れぬ心も知らず、空は戯が憎らしいと思うほどに青が澄み渡る晴天だった。
日が隠れるには、尚半日以上待たねばならない。
は大きく息を吐いた。
白い靄がその場に残され、戯自身の体に掻き消される。
手枷の痕が疼いた気がした。














つづく⇒



ぼやき(反転してください)


ページの更新作業をしながら修正作業を行っています
今年中にアップ済みの戯家話、全部作業終えられたらいいなー…
一部言い回しが変わると思いますが、内容に大きな変更は加えません

2007.11.08 初
2019.01.12 加筆修正



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