雲晴れるその先に






戯家の愚人 ― 曇天後ハ晴天続キ・前 ―













薄暗い牢は、この季節の気と相まって一層寒い。
だが、どこか湿気を感じる、じめっとした空気。
背中に感じる石はひんやりとして触れている部分の熱を容赦なく奪う。
両の手にはめられた鉄枷もただただ冷たく、肌に吸い付いてくる有様だ。
大きく息を吐くと目の前に白い靄が出来て消えた。

ふと天を仰ぐ。
寄りかかった壁の、ずっと上の方にある小さな格子のはめられた窓。
外はこの位置からだと見えないが、光のさし具合から見て午頃なのだろう。
どうやら、影の薄さからいって、今は曇っているらしい。
このまま雪がちらつかなければいい、そんな事を思いつつ放り出していた足を組み直して戯は胡坐をかいた。
当然だが、本も何もない。
何をすることも、出来る事も何もなくただ時間を弄ぶ。
いや、何刻か前に体を動かそうと思ったのだが、暫く湯を使うことができない事を思い出して止めたのだ。
少なくとも四日後までは。

今朝、戯は一人の兵卒から昨日起こした騒動に関する処罰について報告を受けた。
その兵卒はこう言った。



『その場の目撃者の証言、お前たち当事者の言い分を吟味した結果、お前には過失はなしと認められた。しかし、我々の公務を妨害したという事実もある。それらを考慮し、お前の釈放は五日後の早朝とする』



予想通りではあった。
驚くほどのことでもない。
しかし少々長すぎる、と戯は憂鬱な気分になった。
暇をつぶす何かがあるなら別だが、その何かが無いのだから。
そして、案の定、今既に時間を弄んでいる。
再度、大きな息を吐く。
大人しく、寝ていよう。
内心呟いて、ごろりと体を石畳に放り、目を閉じる戯だった。






















早朝、目が覚めると同時か、曹操の下へ、放っていた使いが報告の為に戻ってきた。
それは、待ちに待ち、望んでいたものだった。
つまり、長平で先日捕らえられた者は、戯本人で間違いない、と。
楽進には、数日留め置くようにと、伝えたとのことだ。
その報告に、曹操はひとまず満足した。
それから、直ぐに長平へ出立する準備にかかるよう次の指示を出す。
去っていく使いの足音を聞きながら、曹操は逸る気持ちを抑えつつ、今日は最高の朝を迎えることができたと窓外を見やった。
とはいえ、僅かに目がしょぼつく。
ろくに睡眠をとれていなかったのだから仕方が無いか、と曹操は自嘲気味に笑みを浮かべた。






















陽が昇ってから一刻半ほどが経っていた。
執務室で事務をこなしつつ夏侯惇は大きく息を吐く。
窓外に目をやると、尚一層気を重くさせる程の雲が空を覆っていた。

―――話は一刻ほど前に遡る。
身支度も済み、これから出仕しようと思っていたところだ。
自邸の門まで行かない所で庭から自分を呼ぶ声が聞こえた。
その時点で、何か嫌な予感を感じつつ、そちらを振り向く。
庭の植木の茂みから姿を現したのは何時も曹操の周りで諜報等を専門に回っている者の一人だった。
いよいよ、状況は悪い方向へ向かいそうである。



『何があった』



一言そう聞くと、その者が言った。



『主公からの伝言でございます。長平で急用ができた。数日で戻る。供は夏侯騎都尉を連れて行く。それまで、後のことは全て夏侯将軍に委任する、とのことで御座います』



聞き終えて直後、一気に気が重くなった。
暫くの沈黙の後、伝言を伝えに来た彼を下がらせた。
そのとき仰ぎ見た空は、今と同じく重い雲に覆われていた。

―――思い出すだけでも憂鬱である。
しかし、一番の苦労人は供として連れて行かれた我が族弟(いとこ)だろうと、夏侯惇は机上の作業に戻った。
翌日、すれ違いになってしまった李典がここを訪れることを夏侯惇はまだ知らない。
そして、彼が待ち惚けをくらうという事も。



















許昌を出立してから翌日の辰の下刻、既に曹操と夏侯淵の二人は長平に着いていた。
昨日とは打って変わって、清清しい空色の覗く晴天である。
流れる雲の動きも穏やかだ。
屯所へ向かう道を馬を引いて歩く。
夏侯淵はそんな主の行動を止めたのだが、こちらの方が目立たなくて良いと気にも留めず、曹操は構わず先を行ってしまう。
こうなったら、誰も止められない。
そこで諦めたのは、つい先ほどのことである。
長平に入ってから間もなく、大通り沿いにある屯所に着いた。
夏侯淵が敷地内を歩いていた兵に一言二言何事か伝える。
暫く待っていると、正面の平屋の建物から楽進が姿を現した。
曹操はその姿を確認すると笑みを浮かべ口を開く。



「励んでいるようだな、文謙」



曹操の言葉に、楽進は短く答えて拱手した。
それから言った。



「主公直々に足を運ばれずとも、許まで彼の者を送りましたものを…」

「それではいつになるか分からぬではないか。それならば、俺が直接来た方が断然早い」



妙才も一緒だしな、と付け加え笑う曹操に、楽進と夏侯淵の二人は半ば呆れた。



「では、行くか」



間髪いれず、曹操が牢のある方へと足を向ける。
道すがら、近くを歩いていた兵卒に自分の馬と夏侯淵の馬を厩まで連れて行くよう言いつける辺りは流石、抜かりが無かった。
そんな曹操に、ほぼ置いていかれる形の二人はその後を追いながら、主公が牢へ赴くなどとんでもない、と口々に抗議するが、その言葉を曹操が聞くはずがない。
結局、いつまでも振り回される夏侯淵と楽進は、先行く曹操の背を追う他ないのであった。














つづく⇒



ぼやき(反転してください)


ページの更新作業をしながら修正作業を行っています
今年中にアップ済みの戯家話、全部作業終えられたらいいなー…
一部言い回しが変わると思いますが、内容に大きな変更は加えません

2007.11.06 初
2019.01.11 加筆修正



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