思いとは裏腹に






戯家の愚人 ― 本日、晴後曇也 ―













一九七年春、正月。

未だ、雪の積もる許昌の内城の執務室の窓からただ外を眺めている男、曹操孟徳。
昨年秋、八月に献帝を擁し、この都へ遷都を申し立てた。
当然のようにその献策は申し入れられ、今に至っている。
一介の兗州牧であった半月前とは違い、これまでに色々ありはしたが、今は司空に落ち着き、”曹公”と呼ばれる身である。
自軍麾下の、荀ケ、荀攸らといった面々にも、奏上してそれぞれ昇進させている。
また、棗祗からの献策もあり、新しく屯田を開始し成功に至っていた。
頭を悩ます問題も多かったが、内政・人事において少なからずの成果を収めていることも事実である。

さて、前述したように曹操はただ、何とはなしに外を眺めていた。
雲はあるが、青空の広がる晴天である。
その太陽の光が、積もっている雪に反射して何とも眩しかった。
昨晩は大分降ったようであったが、それも今では無かった事のようだ。
丁度、一年ほど前に死の間際、戯志才の遺した言葉を思い出す。



『どうか、妹の事を頼みます』



そして、彼はこうも言った。



の愚は、愚にして愚にあらず』


―――と。
元より、自分が気に入っていた臣の言葉を無碍にする筈も無く、また世の評判は良くないが耳にするその妹とやらのことが少しく気にはなっていたのも確かだ。
であるからして、戯志才が息を引き取って直ぐ、荀ケを遣わせてその死を知らせた。
そして、それと同時に彼にどんな人物であるかを見てくるようにと頼んだのだ。
しかし。
その荀ケはと言えば、余りの愚挙に頭に血が上った挙句、陳留を発って五日半後、半ばつき帰される形もあって戻ってきたというのであった。
普段の荀ケらしくないと叱責した後、すぐさま別の者を遣わせたが、家には誰もおらず、もぬけの殻だったという。
ただ、わずかな家財道具だけが整えられもせず置いてあっただけで。
だが、そんなことで戯志才との約を違えるわけにもいかない。
今も尚、人を方々にやってはその行方を追わせていた。

――もっとも、全くといっていいほどその足は掴めていない。
あれ程、世に噂の立っていた人物なのだから、どこかで、また同じように噂が立ってもおかしくない筈であるのに、暫くは彼女がぱったり姿を消したことに安堵の言葉が巷を駆け回ったぐらいで、一年近くも経つ今は皆、彼女の存在を忘れてしまったかのように唯の一つも彼女に関する言葉があがることはなかった。
だからこそ、逆にその戯という人物に曹操は益々、興味を抱いた。
僅かな痕跡すらのこさない、その見事なまでの身の暗まし方に。
凡そ、愚とはかけ離れたその妙技に。
そして、彼女は一体、どんな顔で、どんな声音で、どんな身のこなしで愚を振舞うのか、と。
荀ケからの報告によると、世の噂と寸分違えること無い外貌と振る舞いだったと言う。
その上、その瞳は人を蔑むかのような色を隠しもしていなかった、と。
ただ、面白い、と思った。
更に聞くところによると、日常、ごろつき共と殴り合い常にその者らを伸していた、とも言う。
それが事実ならば、相当の胆力と腕ではないか。
そして、戯志才の、あの言葉に含まれた言外の意味。
実際に戯に会い、その器量が適う者であれば軍の者として起用しようと、そういう積もりでいる。
世の評判が何であろうと気にはしない。
既に数年前、青洲兵と名づけた、未だ黄巾を仰ぐ兵達を幕下に迎えたのだから。
早く、有力な手がかりが見つからないだろうか。
その思いは、日を増すごとに募るばかりで、それはまるで乙女が恋心を募らせるようではないか、と薄っすら口元に自嘲に似た笑みを浮かべて、空を仰ぎ見る曹操だった。

















許昌の南東に位置する長平。

そこで一騒動起き、騒ぎを起こした数名を縄目にかけようとしたのだが、うち一名がどうして捕まえることが出来ない。
今はなんとか兵で固めてはいるが持ちそうにもない。
そんな情けない部下からの言葉を聞いて楽進は騒動の起きている現場へ赴くのだった――。

















喪に服していた戯は、それから一年経った今、再びこの長平県に帰ってきていた。
もう暫くは大人しく過ごそうか、とそんなことを思いつつ、しかし朝から飲み続けていた酒に飽きて街を歩いていた時だ。
ただ偶然、ごろつきと肩をぶつけ、ありきたりに絡まれた。
とりあえず、謝ったのだが喧嘩腰に手を出してきたので、そのまま一発返してやるとその後はご想像の通り。
周りも巻き込んで大騒ぎとなり、現在はそれを収拾させる為に屯所から出てきた兵に囲まれている至大だ。
ここまで来たら、大人しく捕まるのも癪なのでその縄目に掛からぬよう逃げてはいるのだが、どうして中々、兵の数も多く包囲網から出られずにいる。
どうしようものかと、組んだ両手を後頭に添えながら、そんな素振りは微塵も出さずに周りを気にしていると、一角の兵たちが道を開けはじめた。 そして間もなく、その先から兵卒とは違う形の人物が現れる。
体格こそ小柄ではあるが、明らかに兵卒たちとは違う何かを感じさせる男だ。



「捕まらぬというのはあの者だな?」



その男が近くに居た兵に聞くと、短く彼は返した。
そして、彼はこうも言った、”楽都尉”と。
それを確認して満足したのか、楽都尉と呼ばれた男は数歩前に出るや、手にしていた得物・双戟を構える。
大人しく捕まらなければどうなるか、誰であっても瞳を見れば容易に理解できた。
だが、例えそれを理解できていたとしても、戯には大人しく捕まる気など全くなかった。
口元に笑みだけのせると挑発するようにその瞳を見返す。



「そなた、その命、落としたいのか?大人しく縄目にかかれば落とさずに済むかも知れぬぞ」

「…ならば、この命落としてみせろ」



徐に右手を己が前に出し、戯は挑発してみせた。
そして、更に一つ付け加える。



「楽文謙殿?」



それと同時か、男―楽進―が地を蹴り、戯の左脇を狙って右手の戟を突き出す。
は、その攻撃を難なく左に身を翻してかわした。
再び両者が睨み合う。
楽進が構えを解かず、どこか不快そうにして言った。



「俺の名を知っていたとはな」

「巷では有名だからな。兵を集めるのが得意な文官がいるって…いや、今はもう立派な武官か」



それは、半分嘘だった。
だが、近からずも遠からず。
楽進の噂話が巷を駆けているのは事実である。
並々ならぬ剛胆の者だ、と。

再び、楽進が戟を構えて攻撃を仕掛ける。
右、左と繰り出されるそれを戯も巧みにかわしていった。
灰色の雲を帯びつつある薄青の空に、空を切る音だけが響く。
周りを包囲している兵たちは手を出すこともできずただそれを見守るだけだ。
その兵の包囲網の外側では中の状況が気になるのか、民たちが背伸びをしながら中を伺おうとしているのが見て取れた。
それから、どのくらいの時が経っただろうか。
それほど長くはない。
楽進が左の戟を戯の首を薙ぐように振り払った。
その攻撃を戯は身を沈めてやりすごす。
間髪入れず、楽進の右の戟が戯の頭上から振り下ろされる。
しかし、それを読んでいた戯はさっと身をかわすと地を蹴り、楽進の右肩に己の左手を乗せそれを軸として、彼の後方に身を転じた。
楽進が後ろを振り向く。
の予想に反して、楽進の表情には焦ったような色は微塵も感じられなかった。
面白くない。
がそう思った矢先、楽進の表情が徐に変わった。
笑みを、これで全てが終わったと、そう思わせるような笑みを僅かに浮かべているのが戯の瞳(め)に映る。
瞬間はっとして、後ろを振り向いたが既に時遅く、振り向ききらぬうちに正体のわからぬ誰かに腕をねじ上げられ、戯は地に組み敷かれた。



「手古摺るとは、文謙殿らしくもない」

「曼成…情けないところを見せた」



そう言って楽進は、曼成と呼んだ男・李典の元へ歩み寄った。
その下には、先ほど組み敷かれた戯がいる。



「盗みか?」

「いや、騒動起しだ。誰か、この者を縛り上げろ」



そう楽進が声を張り上げると、民を散らしていた兵のうちの数名が進み出てきて戯に縄をかけていった。
あっという間に縛り上げられ、戯はその場に立たされる。
いつの間にか空は雲に覆われ、ちらちらと白いものが舞い始めた。
風はない。



「曼成はなぜここに?」



楽進が問う。
李典は眉尻を下げながら笑みを浮かべた。



「主公から偶には顔を出せと書状が届いて、それで執務に一段落ついた故、数日前に離狐を出てきた所だ」

「それは…巻き込んで悪かった…」

「構わない、自分から頭を突っ込んだだけだ。それに今日はもう、ここで宿を借りるつもりでいた」

「そうか」



二人は、そこに戯など居ないかのように笑いあった。
この二人は、相当に仲が良いのだと、戯は思った。
それと同時に、今日は運が悪い、と。
彼がここを通らなければ、今の自分の状況は恐らくなかっただろうに。
そう思いながら、戯視線を落とした。
ちらつく白いそれが地に吸い込まれていく様をじっと見つめる。
程なくして、戯は話が終わったのであろう、歩み始めた楽進の後ろにつくよう背を押された。
この後は、兎にも角にも、牢に投げ込まれるに違いない。
陽は隠れてしまってはいるが、未だ沈むには相当の時間を費やす筈である。
気の長い話だ、と何とはなしに空を仰ぎ見る戯だった。













――外が暗くなって久しい。

夕刻を過ぎた頃の話だ。
いつもの如く、執務室で曹操は戯に関する報告を待っていた。
そして、ついにそのときが来た。
それが本当に彼女なのか定かではないが、今日の昼頃、長平にて役人に捕まった数名にそれらしき人物がいたと、そういう事実を長平から出てきた商人に放っていた諜報の一人が聞き出したという報告を受けた。
早速、その情報に曹操は食いつき長平の屯所を担当している楽進に直接聞いてくるように使いを放つに至る。
今はただそれを待っている所だ。
恐らく明日の朝、遅くても昼には結果が分かる筈だろう。

漸くこのときが来た――。
と、今日の出来事を思い出しつつ曹操は、恐らく今夜は眠れぬだろうと、そんな事を思った。
雪の止む、月を隠した雲の下、東屋で杯を傾けながら。














つづく⇒



ぼやき(反転してください)


ページの更新作業をしながら修正作業を行っています
今年中にアップ済みの戯家話、全部作業終えられたらいいなー…
一部言い回しが変わると思いますが、内容に大きな変更は加えません

2007.10.31 初
2019.01.10 加筆修正



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