きっと、この吹雪は予兆なのだと思っていた

やはりそれは、間違いではなかった






戯家の愚人 ― 終日雷雪 ―













冬十一月。

明朝からの激しい吹雪。
厳寒に身震いは止まない。
雷鳴が轟き空気を震わせ、吹きすさぶ白が視界を覆う。
こいつのせいで、今日は無駄に早くから起きているのだと、戯は『司馬法』に目を通しながら、内心、毒気づいた。

司馬法のみならず、この部屋に置いてある全ての兵書や史書などは、兄である戯志才の持ち物だ。
と言っても、この家は戯志才のものではない。
彼とは久しく別居し今は頴川―許昌―の近く、長平県と言う所に住まいを置いている。
書物は勝手に拝借してきたものだった。

問題の志才はというと、一年程前から許昌にいる曹操の下へと仕官していた。
同じく、曹操麾下の荀ケの推挙による。

ともあれ、この街の者が今の戯を見れば、相当に驚く筈だった。
普段の品行に似合わず書見などしているのだから。

それでも、戯にとってしてみれば、何ら変わったことではない。
時が許せば書見をする。
それは彼女にとって日課の一つであり、珍しいことではないのだ。
だからこそ寝付けぬからと、書を手にとったのも特段、この家の中では不思議なことではなかった。

視界の端に、一瞬、光が瞬く。
数秒後に大地が裂けるのではないかと思わんばかりの雷鳴が轟いた。
戸を閉めてはいるが、格子のおかげであまり意味はない。
その格子越しに外を見やる。
止む気配のないそれと、吹き荒れる風。
だから、という訳ではないが目が覚めた時から、戯の胸にはざわりとした、不快な気配が渦巻いていた。
あまり予兆とかそういう迷信じみたものを信じる性質ではない。
しかし、どうにも今回ばかりはその感がして気分は晴れなかった。
恐らく、そんな気分になるのはこの悪天候のせいだと決め付けた上での書見である。

そんな時、びゅうとなる風音に混じって僅かに別の何かが聞こえた。
馬の嘶きだった。
外に向けていた視線はそのままに、戯は眉間に皺を寄せ訝しむ。
それから間も無く、人の声がした。
此方に呼びかける声だ。

この悪天候にどこの馬の骨だ。
内心、そんな悪態を吐きつつ、戯は几に書を置くと邸の玄関へと向かった。
戸を開け、中から外を見やる。
思っていた通り、そこには馬を傍らに白いそれを乗せた人が立っていた。



「どちら様か」



声をかけるとその人物は、積もる雪を払いながら、その瞳に多少の驚きの色を浮かべた。
恐らく、今の自分の身形に対してだと戯は思った。
だが、それは当然のことだとも言える。
それというのも、戯は女であるにも拘らず男物の服をだらしなく着た挙句、髪も結わずにぼさぼさのまま現れたのだ。
余程の者でない限り、その顔色を変えぬ者など居ないだろう。
しかし、戯を目の前にした彼はその驚愕の色を瞬時におさめると、笑みすら浮かべて口を開いた。



「曹州牧に仕えている荀文若と申す。ここは戯殿の邸で相違なかったかな?」

「いかにも、私が戯で、ここはその持ち家だが・・・中に入って話してもらえないか。 そこでは風音が五月蝿くて、いささか聞き辛いし、何より寒い」

「それは、失礼致した」



会うのは初めてだった。
よくよく見れば、背も高く、成る程、世の人が容姿端麗だのと持て囃すのも当然だと思う。
だが、その容姿にそぐわず、大分人好きのする性格のようだ。
敬語を使っていても、どこか親近感の湧く、それでいて尚、明朗な言葉遣い。
自分とは恐らく正反対の人間だろうと思った。
ただ、なぜ彼がこの家を訪れたのか、戯にはさっぱり分からなかった。
あるとすれば兄関係なのだろうが、それもまた、然程気にかけてもいない。

ふと、彼の微笑みすら伺えた瞳の色がすっと消えた。
そして、言った。



「実は…そなたの兄上が、亡くなられた」



それはあまりに唐突過ぎる、突然の宣告だった。
その静かなまでの、しかしよく通る声。
どこかで、また雷鳴がした。
は荀ケの発した言葉に、珍しく驚いた。
しかし、心のどこかで直感的に理解したのもまた事実だった。
激しく吹く風が戸をガタガタと揺らす。
僅かの沈黙の後、そうか、とだけ告げると戯はさっと、踵を返した。



「待たれよ!」



咄嗟に荀ケが声をあげる。
その声に、戯は足を止め、徐に振り向くと荀ケに向き直った。



「何か」



酷く冷たい声だと、戯は我のことながら思った。



「他に言葉はないと言われるのか!?聞きたいことは・・・!?」



そう、荀ケは声を荒げる。
情のある人なのだと、どこかで思う。
だからこそ、自分の発する言葉も表情も、きっと一層冷たく見えているのだと、そう考えずには居られなかった。
まして、交流など無いのだから、尚更に。



「ない。凡そ、そちらで志才は葬ったのだろう?おまえの主君である曹州牧の、我が兄に対する執着振りはこの私でも知っている。それから、兄に限らず人材への思い入れも大層なものだということも承知だ。ならば、その後の対処が如何様か、見当がつかぬわけでもない。それとも、何か違うものでもあるのか?」

「……そなたの、言う通りだが…」



その目に、怒りが感じられたのは勘違いではないだろう。
僅かな表情の動きを見過ごすほど己は凡愚ではないと、戯は多少なりとも思っている。



「…それまでの、ここまでの経緯を聞かぬと申されるのか?気にはならぬと申すのか……!?」



尚も言葉を続ける荀ケに顔色ひとつ変えずに戯はさらりと答えた。



「何も。関係のないことだ、どうして気にする必要がある。…他に用とやらは?」



それ以上何も言わなくなった荀ケを戯は見据える。
大分、身長差はあったが距離があるため、表情を正面から伺うのは容易なことだった。
僅かに肩を震わせ、言葉を放たぬ荀ケに戯は視線を真っ直ぐ向けたまま、言った。



「なければ曹州牧のもとへ帰るといい。おまえも暇な身ではあるまい、荀司馬殿」



そう言って、戯は再び踵を返す。
暫くして、失礼した、とだけその背に返って来た。
その言葉と声は、荀ケの消化しきれない感情そのものを如実に語っていた。
戸を閉める音の後、程なく馬の嘶きも遠ざき、ただ風が戸を叩く音だけが邸の中に響く。

房に戻り、再び置いたままにしていた書を手に取った。
壁に背を預けその場に腰を下ろして、開け放したままの戸から外を見やる。
風上にある戸だったが、やはり、その白は風に弄ばれて室内に徐々に山を作っていった。



「志才が死んだ…」



ただ、ぽつりとそう呟いた。

は異母兄(あに)である志才のことを”兄”と呼ばなかった。
常に”志才”と名で呼んでいた。
その事を、志才本人は咎める事もなく、好きに呼ばせていたが、世間ではそんな戯のことを当然の如く礼儀知らずの愚か者と罵る。
だが、戯はそれを気にすることもなかった。
勝手気ままに過ごし、身形も整えず遊び呆け、文字通り荒くれていた。
女らしいことは一つもしない。
に会いたければ、酒家に行け。
誰が言い出したのか、いつのまにかそれは合言葉のように市井を巡った。
売り言葉に買い言葉で、同じく荒くれな男どもと殴り合いに発展するのも日常茶飯事だった。

それに比べ、俗世間から離れてはいたが兄・志才は評判になるほどの真面目な男で、清廉堅実、言うまでも無く品行も良かった―俗世から離れる前の評判ではあったが―
だからこそ、この異母兄妹(きょうだい)は世間でよく比べられたし、妹の評判の悪さに拍車をかけ、兄の評判は輝きを増していた。
別居している事実に世間は、妹は戯家に捨てられたのだ、と信じて疑わなかった。
志才が仕官して間もなく、曹操の下でその才能を余すことなく発揮し軍師として活躍し始めた頃から、世間からの戯への風当たりはまた激しさを増した。
戯家に向けられていた僅かな泥も全て、戯一人に向けられるようになった。
戯家がではなく、根本から戯一人だけが暗愚なのだと―だが、父母共にこの世を離れて久しい―
それでも、それを戯が気にしている様子は、それこそ全くなかったのだが。



「人はいつか死ぬものだ、だが」



あまりに早すぎる――



呆然と呟き、呆然と外を見つめる。
久しく、直接会っていなかった。

理解はした、しかし実感は無い。
直接会っていなかったからとか、そういう理由では恐らく、ない。
唐突であるから、と言えばそうなのだが、それは全ての事象にも通じることだ。
人の死ほど、唐突であると実感するものは無いのではないかと、ふと戯は思った。
だがしかし、ただ虚しさが残るその心にはどうする術も無い。

どうしようもない、その虚無感に、ただ今は自分の代わりに暴れてくれと、視界を惑わす吹雪に心の中で呟く。
どこかでまた、雷鳴が轟いた気がした。














つづく⇒



ぼやき(反転してください)


ページの更新作業をしながら修正作業を行っています
今年中にアップ済みの戯家話、全部作業終えられたらいいなー…
一部言い回しが変わると思いますが、内容に大きな変更は加えません

2007.10.22 初
2019.01.08 加筆修正



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