成事は説かず、遂事は諌めず、既住は咎めず
戯家の愚人 ― 雲居ノ空 ―
戯は窓辺に椅子を置き、窓枠に肘をついて何を見るでもなく窓外を眺めている。
三月ほど前のことを思い出していた。
…―――――。
『戯様』
知らぬ男の声がして、その時戯はあたりを見回した。
明確にどこから声がしたのか、すぐには分からなかったからだ。
だが、窓外から聞こえたのだと、そこにある気配に気づき視線を向けた。
数歩、歩み寄り戯は窓外に向けて言う。
『誰だ』
『突然の御無礼お許しください。私は刺史様のお傍に仕えていた者です』
ほんの僅かに顔を見せながら男が言う。
まだ日は沈んでいない。
堂々とする男に、よくもまあ見つからずに済んでいる、と戯は思った。
部屋の戸の外には、見張りがついている。
戯はそちらに気づかれぬよう、声を抑え、しかしごく自然に抑揚をつけずに答えた。
『何の用だ』
『どうか、刺史様の無念を晴らすため、様の腕を見込んでお頼みしたいのです。まずは様をここからお連れすべく準備を整えております。ですから、どうか』
話を続けるその男の言葉に、戯は僅か眉間に皺を寄せて言った。
『あなたの言いたいことは分かった。しかし、今はまだ動かない方が良い。関雲長は思っていた以上に隙がない。外の事をあまり詳しくは知らないが、少なくとも今は、まだ動かぬ方が賢明だ』
戯は、度々訪れるようになった縻夫人からの情報を思い出しながら、男にそう告げた。
もちろん、縻夫人にそうと気づかれぬように聞きだしている。
恐らく、縻夫人は自分が戯にとって有益な情報を流しているとは思っていないだろう。
ただ当然に、関羽が、外の見張りからの報告や、縻夫人との会話の中で、それと悟ってしまうことも考えられる。
だから、そうだと悟られぬように、言葉に細心の注意を払って聞きだしていた。
そこから得た情報から推察するに、いま動くのは得策ではない。
寧ろかえって危険だと、戯は思っていた。
『ご忠告感謝いたします。ですが、ご安心ください。この日のため、私達は耐えてきたのです。必ずや成功させて見せます。ですから、どうか様にもよろしくおねがいします。近い内に、再び参上します』
言うや、気配が消えたのを戯は感じた。
”達”と言うからには、他に何人か仲間がいるということだが、それが何人かは分からない。
どちらにしても悪い予感しかしなかった。
戯は静かに、ため息を吐き出した。
そして、それから二十日が過ぎたころ、突然それは来た。
『殿、よろしいか』
『どうぞ』
窓辺に椅子を置き、窓外を眺めていた戯は、少しだけ首をそちらに向けて関羽の声に答えた。
戸が開く音がする。
背中でそれを聞いた。
『つかぬことをお聞きするが、殿はこの者と知り合いか?』
後ろを振り返る前に、戯には何のことかすぐに分かった。
同時に、やはり露見したか、ということと、この後自分がどうすべきか、ということを考えた。
振り返ると、関羽の手には一度だけ見た男の首があった。
苦悶の表情をしている。
拷問でも受けたか、と戯は思いながら徐に立ち上がり、僅かに眉間に皺を寄せその顔を確かめるように暫く見た。
何を聞かれ、何を吐いたのか、それは分からない。
首を振る。
『いや、知らないな。誰だ、その男は』
『本当に知らぬか?』
関羽が戯を鋭く睨む。
戯は、そんなことをされるのは不快だ、とほんの僅か表情に出しながら迷惑そうに言った。
『知らない。初めて見た顔だ。何をした?』
『いや、知らぬのならば構わぬ。非礼を詫びよう。邪魔をしたな』
そう言って、関羽は男の首を手に部屋をあとにした。
戸が閉まり、気配が遠のく。
窓外に視線をやる。
やがて、関羽の後ろ姿が小さく確認できた。
戯は、戸の外の気配を確認するように視線だけそちらにやったあと、すぐに窓外へ戻す。
二歩窓辺に歩み寄り、小さく口内で誰にともなく呟いた。
『すまない。赦せとは言わぬ』
それから、戯は静かに目を閉じた。
――――――……。
戯は長くため息を吐いた。
相変わらず自由の利かない手だが、普通に生活する分には特段不自由はない。
胸の痛みも治まり、身体をなまらせないために軽く身体を動かしても痛むことは無くなった。
しかし、ここを抜け出すのはやはり難しい。
夜陰に紛れればいけそうな気もするが、城内がどうなっているのか、未だに掴めずにいる。
それでは無理だ。
生活するに不自由はないとはいえ、手が自由に使えないのは何をするにしても障害になる。
戯は再び長く息を吐き出した。
「(まいっちゃったな…完全に待ち状態だ、これじゃ)」
そんなことを思った時、ほんの僅か、剣戟の音が耳に届いた。
それは小さなものだったが、それでも確かに間違いはない。
戯は窓外に視線を滑らせた。
辺りに目を凝らす。
雲の浮かぶ青空の下、南の方角の外城城壁の向こう側付近が、靄がかかったようになっている。
それは間違いなく、砂埃が立っている証拠だ。
戯はその場に立ち上がり、連子窓の連子子を無意識に握った。
「動いたのか、主公が…」
手を放し、二、三歩戯は後ずさると片手で前髪をかき上げようとして、もう片方の腕がつられてひっぱられたことに、はっとした。
「(そういえば、繋がってた…)」
自分に呆れながら、両手の指を組んで手を下ろした。
そして、そこからもう一度窓外に視線をやる。
「(結局、何も出来ずに終わったな……いや、まだやれることはあるか)」
そう思い直し、戯はもう一度椅子に座ると、その時が来るのをただ待つことにした。
まだ、もう少し動くのには早かった。
目を閉じて、静かに深呼吸をした。
曹操は、広間の中央奥に位置する席に座しながら声を荒げた。
一段下がった、曹操に向かって左側に郭嘉が立っている。
「はまだ見つからぬのか!何をしている!」
「も、申し訳ございません。城の者が話していた高楼へ兵を遣わしましたが、もぬけの殻で…いま、全力で捜索しております」
「…急げ!」
「は」
米神に手を当てて、曹操は長くため息を吐いた。
こんなものはただの八つ当たりだ、と気づいている。
自分で探しに出たいが、そうも言っていられない。
これから劉備の妻子がここへ連れられてくる。
そう指示を出したのは曹操自身だ。
顔は確認する必要がある。
少し前に張遼から早馬で、報せが届いていた。
関羽を投降させた、と。
ただし条件として、劉備の妻子の身の安全を確保すること、劉備の居所が判明したら関羽自身が曹操の下を去ること、この二つを飲むことになった。
それでもいい。
関羽が自分の下へ来るならば。
こんなに喜ばしいことは無い。
だが、今はその気分も半減している。
戯の身がどうなったのか、全く分からない。
内城敷地内の高楼に軟禁されていたらしいことまでは分かっているが、兵の話だとそこには既に居ないという。
どさくさに紛れて脱したのか、或いは命を狙われたのか、それさえも分からなかった。
無意識に拳を握る。
自分のせいで危険にさらした、という意識が強かった。
「(無事でおってくれ、…!)」
そんな曹操を、郭嘉はちらりと一瞥した。
眉根を寄せ、奥歯を噛みしめる。
こちらもまた、曹操と同じ思いだった。
そこへ兵が、女四人、男児一人を伴って現れた。
兵が進み出て、曹操へ拱手する。
「左将軍の妻子を連れてまいりました」
「ご苦労、下がってよい」
曹操がそう告げると、兵は拱手し背を向けずに下がった。
先頭にいた女が右に退くと、青い衣裳の女が怪訝そうな顔で進み出て礼をする。
上げた顔からは、不安を抱いているのだろうことが窺えた。
「劉玄徳が妻、縻です」
「そなたが公叔の妻か…安心せい。雲長との約束だ、そなたらの身の安全は保障しよう」
縻夫人はそれには答えなかった。
曹操は、縻夫人に言葉をかけながら、先頭に立っていた女を見ていた。
どこか、戯に似ている、と思ったが内心頭を振る。
戯がこのような格好で、ここにいる筈がない、そう思った。
第一、雰囲気が違う。
他人の空似だろう。
ただ、関羽との約束がなければ、すぐにでも側に置きたいと思うほどに美しかった。
美しい、という言葉だけでは表現が追いつかないが、他に形容できるものが見つからない。
それほどに美しかった。
侍女の格好をしていないことから劉備の妾か、と考える。
中々、劉備もやるな、と曹操は上がらない気分なりにそう思った。
「ところで、そこの女。名は何という?」
曹操は、歩み出ながら指をさし問う。
その女は、一歩前に出ると礼もそこそこに口を開いた。
「主公、お戯れを。でございます、よもやお忘れに?」
そう言って、女―戯―は眉根を寄せて曹操を見た。
戯烈は内城に兵が押し入り見張りがその場を離れる時を見計らって、高楼を脱していた。
途中、関羽の軍に所属する兵から得物を奪い、手枷の鎖をどうにか断ち切り、枷もまた無理やりその継目をこじ開けて外した。
そして、何よりもまず縻夫人のいる部屋を探したのだ。
彼女の安全だけは確保しなければ、そう思って行動に移した。
それは、一種の罪悪感からだったが、それは戯烈のみが知ることである。
曹操は一瞬、言葉を理解できず戯を凝視する。
指先を僅かに震わせて戯を指差した。
「い、今…なんと申した。、だと?」
「だから、申し上げております。戯。主公の臣でございます。お忘れとは、些か心外です」
再び一歩進み出て、戯はまっすぐに曹操を見る。
侍していた郭嘉が声を上げた。
「た、確かにその声はだ…!」
戯は、郭嘉に視線をやると、無言でただ微笑んだ。
次の瞬間、曹操は戯に飛びつき抱きしめる。
ふいをつかれ、戯は体勢を崩すが、曹操にきつく抱かれていて倒れることは無かった。
「と、主公!人前です…!」
「!心配したぞ!よくぞ生きていてくれた!すまなかった!」
自分たち以外に人がいることも忘れて、曹操はただそう戯に告げる。
戯は曹操の肩越しに天井を見上げながら、穏やかに、しかし呆れたように言った。
「はい、生きております。ご心配をお掛け致したことはお詫び申し上げます。ですが、主公。ひとまずは人前です、放してくださいませんか」
そこでやっと、曹操は戯の両肩に手を添え身体を放すと、その後その手も下ろした。
二歩曹操が後退する。
いなや、郭嘉が今度は戯に抱きついた。
こっちもか、と戯が息を吸い込んだとき、郭嘉が先に言う。
「良かった、本当に良かった。…だ」
「奉孝…分かった、積もる話はあとで聞くから…人前なんだ、放れてくれないか」
呆れながら言うが、一向に放す気配の無い郭嘉に戯は無言でその腕を二回、ぽんぽんと軽く叩いた。
暫くして、郭嘉が渋々といったように戯を解放する。
それを確認して、曹操が落ち付ついた口調で戯に問うた。
「それよりも、…なぜ、そのような格好をしておる。俺たちには、この半年余り全く情報が掴めなんだ。そなたが生きているのか、死んでいるのかも、だ…経緯を聞かせよ」
その言葉に、戯は一度目を細めてから拱手すると曹操の問いに答えた。
「いま、確信いたしました。私がこのような格好をしているのも、雲長殿の策だったのでございましょう」
「雲長の策、だと?」
曹操は戯の言葉に訝しんだ。
すぐにその言葉の意味を理解できなかった。
戯が続ける。
「はい。主公が私と気づかなかったのと同じように、他の者も恐らく私とは分からなかったのでしょう。雲長殿の狙いは恐らくそこです。私の存在自体をくらませ、情報を錯綜させる。そういう策だったのだと思います」
「が許昌へ戻るのを恐れた…ということか」
「簡単に言えば、そういうことだと思う」
郭嘉が顎に手をやりながら呟いた。
戯は郭嘉に視線をやって、小さく頷く。
曹操もまた郭嘉を見たが、ただ黙っていた。
確かに戯がもっと早くに戻ってきていたら、とっくに劉備を攻めぬけていたかもしれない、と思った。
また、その安否が不明だった為もし捕えられているのならば交換条件を出そうかと考え、それを郭嘉や程cに止められたりもしていた。
実際、翻弄されていたのだ、関羽に。
我ながら、蓋を開けてみれば情けない話だ、と曹操は内心自嘲した。
だが、もう終わったことだ、今はいい。
そう思いながら戯に視線を戻し、一拍おいてから息を吐き出した。
顎を少し上げ、気持ちを切り替える。
「雲長も中々やるな」
「はい、流石に侮れません」
戯がそう答えると、曹操は顎に手を当て不敵な笑みを浮かべた。
今は、そんなことはもうどうでもいい、と思った。
「それもそうだが、まさかそなたにそのような格好をさせるとは。俺でもまだ出来なかったことを…中々隅に置けぬな」
そんな曹操の言葉に、戯は不快の色を隠さない。
眉間に皺をよせ、半目で曹操を見上げた。
咎めようとしたとき、戯の後方、広間正面の出入口から声が上がった。
「張文遠、関雲長を連れてまいりました」
その場の全員が、そちらを振り向く。
そこには張遼と関羽が立っていた。
縻夫人が思わず関羽に駆け寄る。
「雲長!良かった、無事だったのですね。怪我はありませんか?」
「義姉上こそご無事で何より。俺は大事ござらん。それよりも、義姉上には苦労お掛けする…自分が不甲斐ない、申し訳ござらん」
「良いのです、雲長が無事なら。私には…いえ、後でゆっくりお話ししましょう、今は…」
そう縻夫人は言うと、後ろを振り向き曹操を一瞥した。
関羽は戯をちらりと見てから曹操へ視線を向ける。
そして、拱手した。
「曹公には、約束を聞き入れ下さり、まずは感謝致す。暫しの間、世話になり申す」
「良い、雲長よ。堅苦しいことはなしだ。まずは早々に許へ戻る、各々も支度せよ」
言って采を振る曹操。
そこへ、戯が一歩進み出て拱手する。
「主公、畏れながら…」
「どうした、」
「はい、許へ戻るまでの間、護衛のため夫人への同行のお許しを」
「良いだろう。その方が奥方も安心できよう」
「お聞き入れ、感謝いたします」
戯は再び拱手して頭を下げた。
その一連を見ていた張遼は、ただ驚いて戯を凝視する。
この美しい女人は誰だろう、と思っていたところに、曹操が戯の字を呼ぶものだから驚く以外ない。
言葉を無くし、ただ視線を上から下まで一巡させた。
それに気づいた曹操が不敵に笑い、張遼を見ながら戯に言う。
「見ろ、。そなたに気づかなんだ者が、ここにもう一人おったぞ。許へ帰還してからも、着飾ってみてはどうだ?どうせ誰も分かるまい」
言われて、戯は後ろを振り向く。
そこには確かに、曹操の言葉が図星だったのか、すぐにそれと分かる顔をした張遼が目に入った。
戯は一瞬目を見開いた後、困ったように眉尻を下げ笑みを浮かべる。
そして、すぐに曹操へ視線を戻した。
「主公。主公は人をからかい過ぎです。分け隔てなく気さくなことは主公の美点ではありますが、度が過ぎれば汚点です。いつぞやの約束お忘れですか」
曹操は、その言葉を聞いて声を上げ、呵呵と笑った。
戯はため息を漏らす。
「の諌言も久しぶりだ、やはり良いものだな。愉快だ。まあ、後のことはあとに取っておくとしよう。その言葉遣い、直させるぞ、。そなたも忘れておるようだからな」
言って戯の目を覗きこむように見つめる。
戯はただ呆れて、言葉は返さなかった。
「よし、下邳を発つぞ」
「「「は」」」
郭嘉、戯、張遼の声が重なる。
そして、曹操軍は最低限の守備と新たな刺史を残し、下邳を引き上げていった。
許昌宮城、曹操の執務室―――
「!なぜ着替えてしまったのだ!!あのままで良いというに」
「ご冗談。あのままでは務めに支障が出ます。第一、着替えが無かったからあのまま夫人の護衛をしていただけであって、着替えがあれば下邳で早々に着替えてましたよ」
曹操は、許昌に着くや一言残して消えた戯が、朝服に着替えて現れたことに声を上げた。
戯は呆れて返す。
因みに、ここにも曹操の賛同者が一人。
「、今すぐ着替えて来い!張将軍ももう一度見たいと言っている!」
「お、俺は何も…」
郭嘉に巻き込まれた張遼が、首を振る。
戯は大げさに息を吐き出した。
「(緊張感もあったもんじゃないな…)」
実に半年ぶりに戻ってきた許昌は相変わらずだ、と戯は思った。
と、同時に帰ってきた、という実感が湧く。
七日前、下邳で曹操と郭嘉に抱きつかれたことをふと思い出して、もう忘れてしまおう、と半目になりつつ戯は前髪をかき上げた。
それから何か言い合っている郭嘉と曹操に、戯はとりあえず拱手するとその室を後にした。
「(付き合ってられないな)」
回廊を行く戯の背に、後を追うようにして着た、張遼が戯の字を呼び声をかける。
戯はその場に立ち止まり、後ろを振り返った。
「遅くなったが、無事で何より。一安心いたした」
「私は、思っていた以上の人に心配をかけさせてしまったようだな。主公に慎め、とよく諌言するが私も同類かもしれない」
そう言って戯は張遼に眉尻を下げながら微笑んだ。
張遼もまた、眉尻を下げながら僅かに口角を上げ首を振る。
そんなことはない、と。
そして、話題を変えるように言った。
「しかし、殿があれほど化けるとは…正直、驚きました」
「あはは、よしてくれ、文遠殿。私もまさか、主公や奉孝に気づかれないなんて、夢にも思わなかったさ。さすがに最初は参ったよ」
そう言って腕を組む戯を張遼はただ見つめた。
装いが変わるだけで、なぜあんなにも変わるのだろう、と思った。
そういえば、鎧をまとった時と朝服でも大分かわる。
同じ人なのに、何故だ、と張遼は段々と早くなる鼓動を誤魔化すために口を開いた。
「たしかに、主公と軍師殿が気づかれぬとは驚くばかり。まっさきに気づきそうなお二人だが」
「まあ、次はもう通用しないだろうな」
冗談交じりにそう言って、戯は笑う。
張遼は、たしかに、と相槌を打った。
その時、戯の後方からこちらへ向かってくる人影が見えて、張遼は拱手して頭を下げた。
それに気づき、戯が後ろを振り向く。
その見知った人物を確認して、戯もまた拱手した。
「これは、子桓様」
「戻ったと聞いて、来た。畏まるな、。俺との仲だろう、顔を上げよ」
戯はその言葉に顔を上げる。
そんな二人を、張遼はただ見ていた。
曹丕は、数えで十四を迎えたが、まだあどけなさが僅かに残る。
同じ年頃の者よりも大人びて見えるのは、十一の頃から度々従軍しているからだろう。
「大事ないか?。心配していた」
「はい、大事なく。子桓様にまでご心配をおかけして…申し訳ございません」
「よい、そう何度も頭を下げるな。無事ならば構わぬ」
戯がほんの少しさげた頭をあげると同時、曹丕は続ける。
「にまで何かあったら…」
そこまで言いかけて、曹丕は口を噤んだ。
今までに何かあったのだろうと張遼は想像したが、何があったのかまでは分からない。
ただ、二人の動向を見守った。
「ふふ、私は本当に愚かですね。子桓様にそのようなご心配をおかけしてしまうとは」
そう言う戯の表情は張遼には見えないが、きっと柔らかく微笑んでいるのだろうと思った。
曹丕は口を噤み、やや下を見ている。
そんな曹丕に戯が何か気づき、おや、と声をあげた。
「子桓様、また大きくなられましたね。半年は長いようで短く、短いようで長いものです……もう私の目の高さと変わりません。追い越されるのも、時間の問題かもしれませんね」
曹丕は戯の言葉に顔を上げる。
戯をそのまましばらく見て、それから少しだけ目つきを変えた。
「。張繍のこと、聞いたか?」
戯烈が関羽に軟禁されている間に、張繍が曹操軍に降伏を申し入れていた。
曹操はそれを快諾し、張繍、そしてその軍師、賈詡以下、麾下の者たちが曹操軍の一員となっている。
その結果、後方の憂いがなくなり、劉備を曹操直々に攻めることができたのだ。
そうでなければ、戯烈の許昌への帰還は、もっと長引いていただろう。
そんな曹丕の問いに、戯は一拍おいて答えた。
「はい。聞いております」
その声音から、張遼にはなんの感情も読み取れなかった。
人伝に聞いた、宛城で起きたという戦のことを思い出した。
自分が曹操の下へ降る前の出来事だ。
その被害は甚大で、将兵は勿論のこと、曹操自身も深手を負い、自分の息子や典韋といった懐刀を失ったと聞いている。
恐らく、そこで何かあったのだろう、と張遼は勝手に思った。
「は、そのことどう思う?」
「主公がそうご決断なされたのであれば、私からは何も。いまの情勢を鑑みれば、それが最善であると思います」
暫く、沈黙が流れた。
張遼から見える曹丕の表情は硬い。
だが、張遼の知っている曹丕の顔はいつもこうだった。
柔らかい表情をしているのを見たことが無い。
曹操にそっくりだが違いを述べるなら、曹操の様に表情を変えたりはしないことだ。
少なくとも、見たことは無かった。
「らしいな……変わらぬな、は」
それに戯は答えなかった。
表情で答えたのだろうが、どうしたのかは、やはり張遼には分からない。
戯はただ、曹丕の言葉にほんの僅か、困ったように眉尻を下げて、口角を少しだけ上げた。
曹丕は、それでも眉一つ動かさない。
戯の目を覗きこむようにして言った。
「これから俺に付き合え、。良いだろう?」
「はい、勿論でございます。それでは、さっそく参りましょう、鍛練場へ」
張遼は、顔には出さなかったが、内心驚いた。
それは、曹丕も同じことだった。
「なぜ遠乗りではないと分かった」
「子桓様のこと。このには、お見通しでございます」
「…流石だな、は」
やはり表情は変わらない。
戯は、ただ柔らかく微笑んだ。
それを一瞥して、曹丕はくるりと背を向ける。
「行くぞ、」
ちらりと視線をやって言った。
そのとき、ほんの一瞬だけ曹丕の視線が張遼に注がれる。
拱手も、会釈すらも返す間はない。
本当に一瞬の事だった。
曹丕はもう、回廊を歩き始めている。
張遼はそんな曹丕の視線に、僅かに違和感を覚えたが、気のせいだろうと気を取り直した。
ふいに、戯が張遼を振り向く。
見上げて言った。
「すまない、文遠殿。そういうことだから、私はこれで失礼するよ」
「ああ、構わぬ」
「そういえば、今夜の宴には文遠殿も当然、招待されているのだろう?」
戯は、思い出すように中空に一度視線をやって張遼に視線を戻す。
今夜の宴、というのは、曹操が催す宴のことだ。
関羽のために催すのだと言う。
張遼は頷いて答えた。
「ああ」
「ならば、また今夜に。では」
そう言って、戯は拱手するとくるりと踵を返し、颯爽と回廊を歩いて行った。
張遼はその背中を見送りながら、暫し回廊にたたずむ。
二人に何があったのかは知らない。
しかし、どこか気の通い合っているそれに、なんと羨ましいことだろう、と思った。
そして、自分も戯とそのような関係を築けたら良いのに、と思う。
だが、そこまで考えて張遼は内心首を振る。
なにを考えているのだろうか、と。
冷たい空気が風に揺れて頬を撫ぜる。
雲はほど近くに見えている。
――が、回廊から見える澄みきった空は、手を伸ばすのを躊躇いたくなるほど遥か遠くにある、と感じさせた。
張遼は一度目を閉じてから、ゆっくりと回廊を歩き始める。
ただ一人の足音が、回廊に響いていた。
つづく⇒
|