一人なれば則ち一義、二人なれば則ち二義あり









    
戯家の愚人 ― 青天ノ霹靂 ―























「失礼いたします!車徐州刺史が劉左将軍に殺されました…!また、小沛を劉左将軍に、下邳を関雲長に占拠されております!!」



一九九年、秋七月。
立秋を過ぎたばかりのその日、突如入った急報に、郭嘉、荀攸、程cの三人は思わずその身を起こした。
盛夏ほど蝉は鳴いていなかったが、まだ残暑厳しい、よく晴れた日だった。
誰ともなく顔を見合わせて部屋を駆け出る。
向かう先は皆同じ、己の主君・曹操のもとだ。
回廊をこれでもかと駆け抜けて、その部屋の戸を先頭にいた郭嘉が、礼もそこそこに程cの制止を振り払い開け放つ。
そこには、曹操が奥歯をかみしめ、口を引き結んだ表情で立っていた。
(つくえ)の上の拳はぎゅっと握り込まれている。



「主公!」

「知っている、劉玄徳のことであろう…?」



開口一番の郭嘉の言葉に、曹操はそう答えるとゆっくりその身を郭嘉に向けた。
いなや、程cが身を乗り出して抗議する。



「だから、あれほど申しましたのに!」

「…わかっている」



曹操は目を閉じるとそれを隠すかの如く、同時に両のこめかみを右手の指で挟みこむようにして顔を覆った。
だが、間髪入れず程cがまた一歩身を乗り出す。


「本当に分かっておられるのですか!?我らが」

「仲徳殿…」

「っ…………」



荀攸が見かねて程cを制する。
それ以上何も言わず首を横に振る荀攸に程cは言葉を呑み込んで居直った。
曹操に視線を移して、荀攸が口を開く。



「それで、主公…」

はどうなったのですか?」



郭嘉が問うた。
荀攸もまた同じ疑問を口にしようとしていたが、思いがけず遮られ、郭嘉に視線を向ける。
そして、その答えを求めるように誰ともなく曹操に顔を向けた。
だが、曹操からは一向に返答はなく、ただ押し黙るだけだ。



「主公!」



痺れを切らし、郭嘉が再度声を上げる。
曹操は三人の視線が集まる中、その手でこめかみを抑えたまま重い口を開けた。



「…行方が分からぬそうだ。”死んだ”という者もおれば、”捕えられた”という者もいる……誰も確かな情報を知らぬが、首は見つかっていないらしい」

「っ…、…」



郭嘉が何か言おうとして口を開けたが、すぐさまそれを呑み込んで拳を握りしめた。
他の二人もただ絶句する。
暫く、誰も身じろぎすらせず沈黙が流れた。
蝉の鳴き声だけがただ虚しく響いていた。
ふいに郭嘉が踵を返し、部屋の外に出る。
荀攸と程cが声をかけようとしたその時、背を向けたまま、郭嘉が敷居の一歩外で急に立ち止まった。



も読んでいたとおり、周辺でこれに呼応し反旗を翻す者が出て来る筈です。俺は周辺の情報を改めて集め対策を練ります……また来ます」

「ほ、奉孝殿!」



言うや足早に去っていく郭嘉の背を荀攸が呼び止めるが反応はなかった。
小さくなっていくその後ろ姿を荀攸は何もできずにただ見送る事しか出来ない。
もどかしさを感じていると、傍らの程cが徐に口を開いた。



「殿…どうされますか?」



曹操に向けて問う。
荀攸が曹操に向き直った。
曹操はこめかみに当てた指に数秒力を籠めると、ゆっくりとその手をはなして荀攸と程cを交互に見ながら言った。



「袁本初のこともある…が言っていた通り、まずは様子を見るが‥兵は直ぐに動かせるようにしておけ…暫くは情報収集に専念する」

「「御意」」



曹操の言葉に、二人が拱手して答える。
それを一瞥して、曹操は二人に背を向けた。



「下がれ、ひとりになりたい」



拱手した袖越しに、曹操の拳が見えた。
(つくえ)の上に置かれたその拳は強く握りしめられ、僅かに震えている。
ほんの少し、顔が垣間見えるが、二人にはその表情までは分からない。
荀攸より僅か先に居た程cが、顔だけちらりと荀攸に向ける。
荀攸は程cの視線に気づくと、目を伏せ一度だけ小さく首を横に振った。
それを確認すると、程cは前方に視線を戻して、無言で頭を深く一度下げたのだった。


































時は一か月ほど前に遡る。
蝉が鳴き、温かい風が吹き始めた頃だった。
その日もよく晴れていた。
立ち昇る雲が青空によく映えていたその日――。



「なりません主公!お考え直し下さい!」

「劉左将軍に兵を与えるなど正気の沙汰ではございませんぞ!」



郭嘉と程cが、曹操の背に言った。
曹操は腰の位置で両手を後ろ手にしたまま振り向こうとしなかった。
丁度そこへ、戯を連れた荀攸が現れる。
部屋の戸は開け放たれていた。



「いいところにきた、お前からも主公に言ってくれ、劉玄徳に兵を与えるなど…」

「与えるつもりはない、兵を貸し袁公路を討伐させるだけだ、奉孝」

「劉左将軍からとってみれば、同じことですぞ、主公!」

「仲徳……ええい、主らと話をしても埒が明かぬ、俺はと話をする、

「はい」

「そういうことだ、どうだ?」

「どうだ、って主公、はまだ来たばかり…」



一部始終を聞いていた戯に曹操が話を振ると、郭嘉が呆れながら口を開いた。
しかし、戯は右手をあげてそれを制する。



「奉孝、ありがとう、大丈夫。公達殿からあらかたお聞きした。状況も、まあ大体は分かる」

言うと、部屋の中へ進み出てこちらを向く曹操に向き直った。
陽気のせいか、何もしなくても額から汗が滲み出る。
は気持ちを切り替えるように息を吸った。



「…ですが、主公。私も反対です。彼に兵を貸すなど無謀にも程があります」

「なんだ、ぐらい俺に賛成してくれても良いではないか。一人とは…なんとも寂しい」



言って唇を尖らせる曹操に、戯はぴしゃりと言い放つ。



遊戯(あそび)じゃないんです、わきまえてください。討伐は他の者にさせれば良いではありませんか」

「……そこまで言わずとも良いではないか。知っているぞ、。おぬし、玄徳と仲が良いでのであろう?そんなお主を裏切るようなこと…あの男がするか?」

「…仲が良い、って……主公ほどではありませんし、それに玄徳殿とは、ただの酒飲み仲間です。それ以上でも以下でもない。それどころか彼はこの程度の関係など、大して気にするような男でもありません。やる時はやるでしょう」



裏の読めそうな言い方をする曹操に、半ば呆れて言う戯
他の三人は二人をただ見守る。
曹操は目を細めて戯をみやった。



「脅してくれるな」

「事実です」



動じることなく言い放つ戯に曹操は口をへの字にする。
見かねた程cが口を開いた。



「主公。いい加減、諦めなさいませ…この場の誰も、主公の意見に賛成の者はおりませぬ」

「…………」



さらに奥歯を噛みしめる曹操。
しばらく沈黙が続き、蝉の鳴き声だけが耳に届く。
頬を撫でる風が生暖かい。
その沈黙を破るかのごとく、曹操が意を決し息を吸い込み口を開きかけた、その時。
何かを解したように、戯は目を伏せると唐突に言った。



「わかりました、主公。主公の言うとおりに致しましょう」

「「!?」」



程cと郭嘉の声が見事に重なった。
荀攸と曹操はただ戯に視線をやっただけだったが、二人のそれは似て非なるものだ。
即ち、荀攸は驚きのあまり目を見張ったのであり、曹操は意外性に驚いたのである。
はそんな周囲を尻目に言う。



「どうせ、主公のことです。これだけ仲徳殿達が諌めても、強行なさるおつもりでしょう?だから、主公の言うとおりに致しましょう。但し、私も兵らと一緒に参ります。私などが抑止力になるなどとは思いませんが、いないよりは幾分マシかも知れません」

「どうせ、とは腑に落ちぬが…まあよいわ。、よく言った!やはり、お主は俺のことを分かっている」

「…ですが、主公。今一度申しておきますが、本当に何があるかわかりません。何もなければ幸運だったと思って下さい。そして、もし万が一何かあっても、不用意に兵を動かさぬよう…劉玄徳が反旗を翻したとなれば、周囲で呼応するものもいるでしょう。それに加え、恐らく彼は袁大将軍の力を借りようとする筈です……確か、大将軍の長子は彼から茂才の推挙を得ていたと聞きます。その伝手を使わない筈がありません。おまけに大将軍は先頃、易侯を滅ぼし河北をおさえた故、勢いに乗っている…下手に兵を動かせばこちらが危うくなります…当然、情勢を見極めてから動く必要があります」


易侯とは公孫瓚のこと、袁大将軍とは袁紹のことである。
俄然元気の出た曹操を尻目に、戯はそこで一度区切ると唇を湿した。
そして、拱手して続けた。



「…とはいえ、それは私の愚見。幸い主公には仲徳殿や公達殿、奉孝という優秀な頭脳がおり、主公ご自身も聡明であらせられますから、そちらの心配は不要と考えます」

「大丈夫だ、。玄徳にはそこまで出来ん。雷ごときで身を隠す者に一体何が出来ると言うのだ。顔を上げよ、

「………」



拱手し頭を下げる戯に、そう言って笑って見せる曹操。
は視線を先にあげてから上体を起こすと、一抹の不安を抱き口を噤んだ。
そんな戯を知ってか知らずか、曹操は手を振って言う。



、もう下がってよいぞ。準備出来次第、玄徳とともに行け。朱文博と路招らにも共に行くよう俺から指示を出す」

「御意」



朱文博とは朱霊のことである。
は再び拱手し礼をとると、そのまま後ずさり部屋を出、再度礼をしてその場をあとにした。
残った程cがまだ何か言っていたようだが、戯にはそれが聞こえなかった。
郭嘉が戯の背を追い、声をかける。



!お前なんだってあんなこと…!」



それは常の郭嘉らしからぬ、焦りが混じる言葉だった。
は後ろを振り向いて、郭嘉に向き直る。
こちらはけろっとして言った。



「主公に述べた通りだよ、奉孝。言った通り、抑止力になるとは到底思えないが、まあ何とか出来得る限りのことはしてみるさ。そうだな、もしも…」



そう言って言葉を止める戯を訝しむ郭嘉。



…」

「いや、なんでもない」

「なんだ、歯切れが悪いな」



声をかける郭嘉に、戯は首を横に振るが当然のように郭嘉から疑問の言葉が投げられる。
言外に、何を考えたのか?と問われていた。
は意を汲取ると、息を吐き出して言った。



「簡単なことだ。最悪を考えるのはいいが、最悪に囚われるのは愚かだ。そうだろ」



言って口元に笑みを作る。
郭嘉は、最悪を考えて尚笑うのか、と内心呆れたが、それを消すように一つ息を吐いてから口を開いた。



「それはそうだな。今更どうしたって仕方がない…”その時”は、どうにかしよう」

「ああ、お互いに」



言って踵を返す戯
回廊を歩き始めた戯の背を追いながら郭嘉は呼び止める。



「…



振り向こうとした戯を腕の中に閉じ込めた。



「気をつけろよ」



はふいをつかれ、己の背後、頭上から降ってくる言葉に一瞬止まったが、すぐさまその腕からすり抜けて郭嘉を振り向く。



「っそういうのいる!?」

「なんだよ、いい感じだったのに」



腕を組み、拗ねたように言う郭嘉に戯は腰に手を当てて言った。



「誰かに見られてたらどうするんだよ」

「いいじゃないか、見せつければ」

「また変な噂がたつだろ、全く恋仲ってわけでもないのに……やめてよね、ほんとに」



いっそ恋仲になればいいじゃないか、と悪びれもない郭嘉に戯はただ呆れた。
そういう所が信用ならない。
これで何でもてるんだろう、と一瞬思った。
は、じゃあね、と残して踵を返す。
郭嘉は再びその背に言った。



、ほんとに気をつけろよ」



左手を上げ振って見せる戯を、郭嘉はただ見送った。
回廊を行く背が小さくなる。
拳をただ強く、握りしめた。

そして、その二日後。
は劉備古参の面々と、朱霊、路招らと共に袁術討伐のため、許昌を発ったのだった。














































それから、ほんの少し時は経ち、同年六月。
大暑を過ぎ、水辺では蛍が飛び交うようになったその折。
下邳に駐屯していた劉備たちのもとに、袁術死亡の報が入った。
急遽、軍議を開き今後の方針を話し合ったが、もとの目的である袁術が死んでしまったのであれば許昌に帰る他ない、というのが満場一致の意見であった。
ところが劉備はそれに加え、もう暫く下邳に留まり周囲を警戒した後、怪しい動きがなければ帰る、という。
更に、兵は曹操から借りているので留まるのは最小限とし、朱霊と路招らには先に許昌へ戻り、事の次第を曹操へ報告して欲しい、というのだ。
には引き続き力を貸して欲しい、と添えて。
朱霊、路招の二人は、何の疑いもなく首を縦に振り二日以内に下邳を発つこととなり、戯は劉備の言葉に一応は承諾し共に留まる事となった。
どちらにせよ戯としては、少なくとも許昌に戻るまでの間、劉備から目を離すわけにはいかない。
警戒していることを悟られぬよう、ごく自然に過ごすこと十日余り。
それは、曹操たちが報せを受ける四日前の夜のことだった。

昼に比べれば、夜は幾分過ごしやすい。
宮城内に設けられた一室で、書見をしていた戯は大きく伸びをした。
戌の下刻に差し掛かろうとしている。
日没から暫く、辺りは薄暗い。
窓外に目をやると西のずっと遠く、その際がほんの僅か明るい程度だ。
そこから南の方角へ視線を移すと、星が瞬いていた。



「(あれから十日と二日。特に目立った行動もなし、変わった噂も耳にしない。他の者にも変化はなし…)」



は、劉備やその周辺の者を思い出しながら、ぼうっと星を眺めた。



「(考えすぎたかな……まあ、杞憂で終わるならそれで良し。周辺諸郡にも変わりはないから、明日あたり帰還を促すとしますか)」



視線を手元の竹簡に戻す。
一拍おいて、それを巻き直し傍らに置いた。
それから左肩に右手をのせて首を回す。
耳に届く音にため息を吐いた。



「(気の張りすぎか…?…そういえば、仲徳殿もよくやってるな、これ……私も歳かな…)」



許昌にいる重鎮の顔を思い出して、すぐに頭を振る。
目の前にいるわけではないのに、何となく見られている気がした。
がそんなことを考えていたその時、段々と近づいてくる足音が一つ。
それに気づいて、開け放たれている戸の方へ視線をやる。
暫くもせず、一人の官が現れて拱手し、軽く頭を下げた。



「失礼します、刺史がお呼びです」

「こんな時分に?」

「何やら、相談したいことがあるとか」

「…そうですか。わかりました、すぐ行きます」



は疑問符を浮かべながら、そう返答した。
刺史というのは、徐州刺史である車冑のことだ。
その男は、再び軽く頭を下げるとそこから去って行った。
それを視線だけで見送って一度頭をかしげるが、考えても無意味か、と思い至る。
その場に立ち上がると一度伸びをし、着崩れがないか身形を整えてから部屋を後にした。














































「刺史殿、戯です」



戸の先に向かって声をかけるが、反応はない。
再度声をあげるが返答はなく、戯がどうしたものかと思っていると、奥から物音がした。
何かをぶつけた音だろうか、倒れた音だろうか。
ともかく、かたん、と音が一度だけしたが、それ以後再び無音となる。
は不審に思い一言詫びを入れると、戸を開けると同時、拱手して頭を下げ視線を上げた。
そこに飛び込んできたのは、書桌に伏した車冑の姿。
何事か、と戯は車冑のもとへと駆け寄った。



「刺史殿、どうなされたのですか!?お加減が…!」



近づき車冑の肩へ手をのせようとしたその時、書桌の下に血溜りを確認して思わず絶句した。
今もなお、それは面積を広げていく。
予期せぬ事態に、一瞬思考が停止する。
行き場を失った右手が僅かに硬直した。
車冑の背を凝視してみたが呼吸をしているようには見えず、伏したその首筋に手を当てるがまだ体温の残るそこから脈は取れなかった。
気持ちを落ち着かせるために息を吐き出して手をさげようとした時、ふいに車冑の背後にあった屏風―といっても衝立に近い―の向かって右脇から人の気配を感じた。
視線をあげると、そこには劉備の姿。
は驚きを隠さず口を開く。



「げ、玄徳殿…なぜ、貴方がここに?…そこで何を…」



言いながら立ち上がり、劉備の顔へ視線を向ける。
何とはなしにその足元へ視線を滑らせると、その背後からちらりと見える剣先。
その先からは、確かに”何か”が滴り落ちている。



「玄徳殿…それは、まさか……貴方が…」

「ばれてしまったか…それでは、仕方がない」



なんとか平常心を保とうとする戯を尻目に、劉備はさらっと言いのける。
普段とは違うその冷ややかな表情に、戯の背筋は粟立った。
しかし、戯が生唾を呑み込んだ瞬間、劉備の表情がころっと変わる。
はっとする戯に、劉備が言った。



「というのは、冗談だ。ばれても構わぬ。殿の推察どおり、刺史を殺したのは俺。そして…殿を呼んだのも、他でもない俺だ」

「な、何故…玄徳殿が刺史殿を…」



理由など聞かずとも見当がついていたが、戯はあえて質問した。
劉備がその質問に答える。



「今を置いて、俺が曹公のもとを離れられる機会がないからだ」

「……それで、刺史殿を殺したと…?」

「………」



無言のまま表情で返す劉備。
なぜ自分をここへわざわざ呼んだのだ、と質問しようとした戯だったがその疑問を口にする前に、劉備が口を開いた。



「俺の誤算は、殿…あなただ」



思いがけない言葉だったが、何故とは言わず、戯は劉備の話に耳を傾けた。
劉備が続ける。



「まさか、あなたが従軍するとは思わなんだ…だが、おかげで決心できた」

「……」

殿が一緒に来てくれたおかげで決心できたのだ…そういう意味では感謝している」

「私がいたから、刺史殿を手にかけた、と…?」

「そう取ってくれて構わぬ」



は眉根を寄せて劉備を見た。
劉備は気にした風もなく、笑みを浮かべて戯を見ている。
無言のままの戯に、劉備が再度口を開く。



「ところで、殿。俺のもとに来てくれぬか?」



それこそ、思いもよらない言葉に戯は言葉をなくした。
まさか、劉備がそんなことを考えているなど、夢にも思っていなかったからだ。
だが、その目を見れば、本気で言っていることに間違いはなさそうだった。



「俺と共に帝の御為、戦ってくれぬか?」

「っ…帝のためというのならば、我が主公とて同じこと。玄徳殿、どうか考え直してください」



一歩二歩と歩み寄りつつ話す劉備の言葉をききながら、戯もまた言葉を返しつつ劉備との距離を二歩程(約3メートル)に保つよう後ずさる。
は、己の手から嫌な汗が噴き出してくるのを感じた。
眉根を寄せたままの戯に対して、劉備の表情は清々しさすら感じられる。
どこかで一匹の蝉が短く鳴いた。



「それはできぬ相談だ。曹公のやり方には些か賛同できぬ。故に俺は離れるのだ」

「ま、待ってください!玄徳殿、あなたが何を見て、何を聞いたのかは知りません…ですが、まず話を聞いて下さい。玄徳殿は何か勘違いをされておられる…」

「いや、勘違いなどではない。それを言うのならば、殿。あなたも何か、俺のことで勘違いをしているようだ」



ぴしゃりと言い切る劉備に戯は言葉とともに生唾を呑み込んだ。
張りつめた空気が、二人の間を流れた。



「さて、話を元に戻すが…殿、俺のもとに来てはくれぬか?俺にはあなたの才が必要なのだ」



尚も続ける劉備に、戯はただ無言だった。
そんな戯に、劉備が諭すように続ける。



「いつか答えてくれただろう?俺が『あなたは何のために曹公のもとにいるのか』と聞いたとき、あなたは言った。”民が安らかに、穏やかに暮らせる世をこの目で見たい、その為に微力ではあるがお仕えしている”と」



その話に、戯は僅かに眉間を寄せた。
劉備はそれに気づいたが、構わず続ける。



「あの話…殿はあまり人に言いたく無さそうだったが、話してくれて感謝しているし、嬉しく思っている…俺も同じ思いを抱いているから、より嬉しく感じた……殿、俺のもとにあなたが来てくれれば…曹公のもとにいるよりずっとその理想が近くなる、と俺は確信している。俺のもとに来てはくれぬか、殿」

「…私は…二君を抱くつもりはありません」



は、一度目を伏せ、そして徐に瞼を上げ言った。



「例え…友の頼みであっても」

「…どうしても、俺のもとには来てくれないか?」

「二言はありません…縁が無かったものとご理解ください」



劉備の目を真っ直ぐに見て戯は言い切った。
その言葉を聞いて、劉備は今まで変えなかった表情を残念そうにして、目を伏せた。



「そうか…残念だ、殿。あなたとはもう少し、近い距離にあったと思っていた…それは俺の勘違いだったようだ」

「………」



車冑を背に立つ劉備を、戯は警戒しながら真っ直ぐに見る。
必要以上に緊張している自分の身体に、戯は内心舌打ちをした。
どう動いたものか、と膝の力を抜きいつでも行動できるように体勢を作ろうとしたその時、一瞬背後に鋭い気配を感じた。
ぞわりと背筋に悪寒が走る。
意識せずとも身体は既に反応し、左回りに後ろを振り向いていた。
しまった、と考える暇などはない。
振り向き際、視界の端に人の姿が確認できた。
身体が背後に向けられていくのと同時に、その人物が視界を占める。
手刀が飛んでくるのを感じ、咄嗟に右足を一足長分前に出して身体を前進させながら落そうとしたが僅かに遅く、その揃えられた指が後ろ首の急所を僅かに外した場所へ入った。



「ぐっ…」



重い一撃が脳を揺さぶる。
体勢を崩し、床に倒れそうになるのを右手をついて防ぐ。
劉備を背後に右膝をつきながら視線をあげると、戯の思っていた通りそこには関羽が立っていた。
自分を見下ろす関羽を、戯は焦点の定まらない目で見上げる。
頭の中がぐらぐらと揺れ、同時に吐き気を催す。
それを奥歯を噛みしめてぐっと堪えたが、視界が揺れるような気持ち悪さは、どうすることもできなかった。



「雲長の一撃に気づき躱そうとするとは…多才だな、殿は…しかし、急所を外した分、その身には余計な負担がかかったようだ」



背後で劉備が言った。
しかし、今の戯には、耳にその声が入ってきても、その言葉を理解することが出来なかった。
朦朧とする意識の中で、このままでは駄目だ、と歯を食いしばりよろよろと立ち上がる。
そんな戯のすぐ目の前まで関羽は歩み寄ると、戯の右肩にそっと左手をのせた。
その手を戯が弱弱しく掴む。
関羽は戯を見下ろして、小さく呟くように言った。



「すまぬ、殿」



の耳に声が届いた直後、上腹部に重く、そして鋭い衝撃と痛みが走った。
と同時に、戯は意識を失う。
その場に崩れる戯を関羽は抱きかかえた。
劉備は関羽の腕の中の戯を一瞥すると、関羽に背を向け言った。



「曹公のもとへ余り早く戻られても困る、暫く牢へ…下邳(ここ)と共に後のことは任せたぞ、雲長」

「兄者…良いのですか、本当に…」



表情を見せずに言う劉備の背に、関羽は複雑な気持ちで遠慮がちに問う。
劉備は背を向けたまま答えた。



「仕方なかろう、今はこれで良い……俺は話した通り益徳たちと小沛へ戻る……もう後には引き返せぬのだ」

「…わかり申した」



劉備は遠のいていく気配を背で感じながら、書桌に伏す今は動かぬ車冑に視線を落とした。
一度目を伏せ、息を吐き出す。
踵を返し、部屋の前の回廊に出ると空を仰いだ。
数えきれない程の星がそこかしこに瞬いている。
ひときわ輝く三つの星が大きな三角を空に描いていた。



「そう、後には引き返せぬ…だが、やはり諦めきれぬな…」



劉備のその決心と呟きは、誰の耳に届くことなく夜の闇へと消えていった。

























































「ん……きもちわる…」



重い頭痛と上腹部の違和感に、そう呟いて戯は顔をゆがませながら目を開けた。
同時に両手の違和感に気づいて視線を向けると、そこには枷がはめられているようだった。
二尺(48センチ)四方の木の板でできたそれは、厚さも二寸(4.8センチ)程あり、ずっしりと重く、ちょっとのことでは壊せそうにない。
一瞬何があったのかわからなかったが、徐々に甦ってくる記憶に、状況を理解するまでそう時間はかからなかった。
その場に起き上がって胡坐をかく。
脈打つような頭痛と、上腹部の鈍痛に再び顔をゆがませた。
額に手を当てたい衝動にかられたが、板が邪魔をしてそれができない。
組んだ足の上に、今はただ、荷物でしかない両手を力なく置いた。



「(まさか、玄徳殿があそこまでするとは…)」

『刺史を殺したのは俺。そして…殿を呼んだのも、他でもない俺だ』

殿が一緒に来てくれたおかげで決心できたのだ…そういう意味では感謝している』

『そう取ってくれて構わぬ』

「(私がいたからこうなったのだろうか…私が大人しく許昌にいればこうはならなかった…?)」

殿、俺のもとにあなたが来てくれれば…曹公のもとにいるよりずっとその理想が近くなる、と俺は確信している』



次々と甦る劉備の言葉を振り払うように、戯は首を横に振る。



「(いや、元々そういう気性を持っていたのなら、遅かれ早かれ玄徳殿は動いただろう…仮に彼の言葉通りならば、私は今回のきっかけだったに過ぎない。今回事を起こさなかったとしても、きっと別の何かをきっかけに動いたはずだ……玄徳殿が私を誘ったことも、どこまで本気なのかは分からない…)」



ふと、その時の劉備の目が脳裏に浮かんだ。
こびりついて離れない、それは確かに本気だったように戯には思えた。
だが、それを振り払うように目を堅く瞑り首を再度横に振る。
瞼を上げた。



「(彼と言う人物が更に分からなくなった……だが、今はそんなことを考えていても仕方がない…どちらにしろ今考えるべきことは、どうしてこうなったのかではなく、これからどうするかだ。それを考えなければ…ひとまず、今命があるということは、暫く殺されることは無いってことかな………しかし、さて…どうするか…)」

「目覚めたか」

「雲長殿」



ふいに声がして、はじかれたように顔を上げた。
その視線の先には、木の格子越しに関羽の姿。
供を付けていないのか、それともどこかに待たせているのか、一人だった。
考えにふけりすぎたか、と戯は自分を戒める。
関羽が手にする明り取りの松明が、薄暗い牢を照らし影をゆらした。



「あなたにこのようなことをしたくはなかったのだが…」



申し訳ない、といった空気を匂わせ、唐突に関羽が言う。
は内心驚きつつ、ふっと笑って言った。



「雲長殿が気にすることではない。仕える主が違うのだ…お互い成すべきことをしているに過ぎない、気にしないで欲しい」

「……」

「それに、もしも私と雲長殿の立場が逆であったなら、きっと雲長殿も同じことを考えると思う」



押し黙る関羽に戯がそう言った。
関羽は暫く戯の目を見ていたが、一度伏せると徐に瞼を上げる。



「納得はしておらぬが、理解はした…もう、これ以上は言わぬ」



そう告げる関羽に、戯は無言で、ただ笑顔を返した。



「ところで、加減は如何か?」



話題を変えるように、関羽がそう切り出した。
は、一瞬きょとんとしたが、その後呆れたような表情を浮かべ答えた。



「あはは…良くはないかな、ここにも特別大きいのを嵌めてくれちゃって…頭おさえたくても出来ないわ…」



言いながら、枷に嵌った両手をあげ実演してみせる。



「俺がおさえてやろうか?」

「…遠慮します」




冗談めかして言う関羽に、戯は両手を下ろしながら返した。
ぱちぱちと松明の火の爆ぜる音が牢に響く。
関羽以外の気配はなく、この牢に入れられている者は自分以外に居ないようだと戯は思った。
関羽が一拍おいて口を開いた。



「そろそろ夜が明ける…食事は不定期、暫くはここで過ごしてもらう。因みに今日の食事はなしだ、何かあれば兵に声をかけると良い……但し、少しでも怪しい動きをすれば、例え殿とて容赦はしない」

「わかった」



その言葉を聞くと、関羽は一度頷いてから踵を返した。
遠のいていく影を目で追いながら、再び薄暗くなった辺りを見回す。
まさか人生で二度も牢に入れられるとは、と戯は自分のことながら内心呆れた。
胡坐をかいたまま、後ろに倒れる。
仰向けになり、視線をぐっと後ろの方へ反らせると、背後の壁のずっと上に窓があることに気づいた。
申し訳程度の大きさの格子の嵌められたその窓から、うっすらと明るみ始めている空が見える。
視線を戻し、暫くぼーっと天井を眺めた。



「(そういえば…玄徳殿が督郵を鞭で打ち殺したとかいう噂が昔あったけど…今考えても益徳殿がしたんじゃ、って思ってたあの噂…案外本当なのかもしれないな……)」



そんなことをふと考えた。
ただ柔和に笑っていてそれ以外の喜怒哀楽を見せることのない劉備の姿が頭をよぎる。
そして、今までそれしか知らなかった戯にとって、昨夜の劉備の”人”としての姿は、やはり衝撃的だった。
それでも何故か憎み切れないと思う自分がいることに気づいて、頭がおかしいんじゃないかと思う。
嘲笑うように息を吐き出した。
思い出したように、がんがんと痛みはじめる頭に、どうすることもできず顔をしかめて目を瞑る。
寝よう、と戯は心の中で呟いた。
どうせ飯抜きだし、と心の中で吐き捨てて。























その夜、戯は色の褪せた夢を見た。
十数週間前の既に色褪せた出来事を。

身体を動かせば、そう時間を掛けずに汗ばむようになってきた、ある春の日のこと。
(やしき)の中庭に設けられた畑を戯は耕していた。
突然一人で訪ねてきて、ずっと無言でそこにいた劉備が背後から尋ねた。





殿、つかぬことをお聞きするが…あなたは何故、曹公のもとに仕えている?』

『急な質問ですね』



手を止めずに答えた。
劉備はさらに続けた。



『変わり者でね、興味があるのだ。是非聞かせてもらえないだろうか』



いちいち口にするのは躊躇われたが、その時はしかし、深く考えず手を動かし畝を作りながら答えた。



『…そう、ですね……一つは私に道を作って下さったことへの恩返しです、感謝してもしきれない』

『一つは…?ということは二つ目は?』

『…………』



手は変わらず動かしていたが、しまったな、と思った。
それは隠す必要もないだろうが、もう少し言葉を選べばよかったと、思った。
無言のままの自分に、更に問う。



『まさか、殿のこと。出世のためとは言わぬだろう?』



さすがに手を止め、そちらを振り向いた。
不躾な質問をしているにもかかわらず、その表情は柔和だった。
それを見て嫌な気はしなかったのを覚えている。



『あはは、御冗談を……他言無用ですよ、玄徳殿。誰にも話したことがないのです…』

『誓おう、他言せぬ』



思えば、心に留めておくだけでよかったものを、強いて答える必要はなかったのだ。
いくらでも断る口実など作れたのに、どうかしていた。
過去の記憶とともに、留めておくだけで良かったのに。



『結論から申しますと……民が安らかに…穏やかに過ごせる世をこの目で見てみたいのです…言葉は不躾ですが、主公ならそれが出来ると直感し、お仕えしています……私の力など、微力ではありますが』

『なるほど。殿、話してくれてありがとう』



不思議な感覚だった。
返ってくる言葉、表情を見て温かい気持ちになる。
それは何故だかわからない。
だがそれは、初めて主公と言葉を交わした時に感じたものと似ているかもしれない。
天然の人たらしとは、こんなものだろうか、とどこかで思った。



『思った以上に恥ずかしいですね、こういう話をするのは』



本心だった。
綺麗事を言っている、この私が恥ずかしい。
同時に、話す必要のない過去を話している気分になった。
まだ何も知らなかった幼い頃、本気で願っていた。
”誰の心も富める世の中”にするために、官となって携わりたい。
ただ純粋に真っ直ぐにそう思い、そしてそれができると信じていたあの頃。
そんなことを思い出して抱いた感情は、恥ずかしいというものではなく、寧ろ惨め、というに近いもの。
だがそれは、自分で自分が可哀想だと思っているようで更に惨めに思えた。
だから、考えるのをやめた。



『そうだろうか?殿の志は素晴らしいものだ』

『やめてください、まだ酒も飲んでいないのに…』

『ははは、それもそうだな…いつか、今度はそう思うに至った理由も聞かせて欲しいものだ』

『それこそ人に話せることじゃありません、ご容赦を』

『それは残念だ』



笑って返した。
本当に笑えていたかは分からない。
ただ、柔和に笑み本当に残念そうにする劉備のまとう空気は自分の心を惑わせた。
そう、間違いなく自分の心は惑わされたのだ。

あの時の自分が唯一断言できたことは――

――それこそ、人に話せることじゃない

自分の目指すものも。
そこに至るまでの自分の過去も。
そして、劉備に惑わされた自分の心も。

それこそ人に話せることじゃない。
それが唯一断言できたこと。

人に話せることじゃないってことだけは、ただ断言できる。
話すようなことじゃない。











―――目が覚めると、月も出ていないのか辺りは真っ暗だった。
まだ夜は深いらしい。
じめっとした空気。
だが、手に触れる(つち)は乾燥している。
はため息をついた。
夢の中の自分は、現の自分と違うことを考えるらしい、と。
あの時の自分は、それを口にすることを躊躇いなどしていなかった。
劉備の”可能性”を探るために、敢えて答えたのだ。
躊躇っているように仕向けたのだ。
しかし話した”理由”は偽りでなく、本当のこと。
そして少なくとも、恥ずかしい、と思ったことだけは事実だった。
だが、それ以外の夢の中の自分が考えたことは、過去を思い出したことも含め、実際その当時は考えもしなかったこと。
何て下らないことを考えるのだろうと思ったが、きっと夢の中の自分が考えることこそ、自分の中の深淵にあるものに違いない、とどこかで合点した。



「兄さん…私はまだ、自分の過去を認めきれていないのかもしれない」



誰にともなく独りごちた。
今の自分も、過去の自分も、そして夢の中の自分も、すべて自分なのだ。
それを、その存在を心から認められなければ、今後もきっと何かの折に夢の中の自分の様に、心を惑わされるだろう。
それは、劉備だけではなく、他のまだ知らぬ誰かに。
あるいは、すでに知っている誰かに。
惑わす誰かが悪いのではない。
あらゆる自分という存在を、ただ認めることすら出来ない自分が悪いのだ。
自分を認めることが出来ないということは、自分を否定するも等しい。
だからこそ、それを本当に認めることが出来たなら、きっともう惑わされることなどなく、ただ信じることができるだろう。
信じることができる。
何を?

そこまで思って、ふと我に返る。
まったく、何を下らないことを考えているのだろうと。
下らないのは夢の中だけにしてくれ、と自分に吐き捨てた。
気晴らしの書もない。
身体を動かしても、満足な食事がないのなら、下手に動くわけにもいかない。
全く何もないな、と思ったが、それもあたり前だ、と思った。
牢の中なのだから。
夢見が悪いのにまた寝るのも何だか、と思いつつ目を瞑る。
頭痛も吐き気もなかった。
ただ何も考えず、目を瞑っていた。



















つづく⇒




 いい訳。↓





書いてて思ったんだけど、劉備がちょっと狂気じみてるよね…
ちょっと気持ちわry
まあ、いいか…私も引き返せなくなった感あるわ…
自分の中では、何となく腹黒いんじゃないかな、って思ってますよ
劉備さん。
それにしたって文章力の無さ…はもう今更か…

ここまでお付き合い下さり有難う御座いますorz


2017.11