白頭新の如く、傾蓋故の如し。
戯家の愚人 ― 寒空ニ巻雲 ―
一九九年春二月。
あと数日で春分を迎えるが、朝夕はまだ息が白く残る日もある。
こと、今朝は久しぶりに身震いするほどの寒さだ。
軒先には薄氷の張る甕。
日はまだ出ていなかったが視認するには十分で、遠く東の空と雲は朱く染まっていた。
寒空の下、ここ許昌の鍛練場に日の出前から響く何かを打つような甲高い音。
湿った土に、二人の男の軌跡が残る。
二人の吐く息は白いが、その額には汗が滲んでいた。
そして、その体から湯気がときおり、白く立ち昇る。
長さは九尺。鍛練用の木棒を握るその拳にも汗が滲んでいた。
どこかで犬が遠吠えをしている。
「文遠殿、腕をあげられたな」
「貴殿ほどではありませぬ…雲長殿」
「謙遜めされるな、俺とて文遠殿ほどはいかぬ」
「その言葉、お返しいたす」
関羽は張遼の言葉を聞いて、ふっと口元で笑うと地面を強く蹴った。
同時に、張遼もまた同じく踏み込んで前に出る。
二人の得物が同時に空を切ると、一層高い音が響いて一本の木棒が宙を舞い地面に落ちた。
丸腰になった張遼と得物を構える関羽の視線がかち合う。
どちらのものともいえない荒い息遣いが互いの耳に響いていた。
関羽は構えをとくと、後ろを振り向き静かに言った。
「そんなところに隠れずとも、出てこられては如何か?」
己が思っていた以上に、声音が冷たかった。
それほどまでに自分は、この人物のことを嫌っているのだろうか、と心のどこかで思った。
大して知りもしない人間なのに、何を嫌うのだろうか、と。
「隠れるつもりは無かったのですが…気分を害されたのであれば謝ります」
そう告げながら回廊の影から戯が姿をあらわす。
およそ武人とは思えない、白く細いその手には鍛練用の木棒が握られていた。
自分たちと同じか、と関羽は思った。
「お二人の気迫があまりにも凄かったので、邪魔をしてはいけないと思ったのですが…」
「邪魔かどうかは、貴方が決めることではない…文遠殿はいかがか?」
ぴしゃりと言い放つ関羽の言葉には、棘が感じられた。
ふいに振られ張遼はただ、ああ、とだけ遠慮気味に短く呟くように答えた。
だが、関羽の目に映る戯は気にした風もなく顎に手を当てて考えるようなしぐさをする。
「それも…たしかに…関殿のおっしゃるとおりだ」
「……」
そう言って、にっこりと笑顔で返す戯。
関羽はただ黙ってそれを見た。
皮肉でもなんでもなく、嫌味の感じられない表情。
普段の自分であれば素直にそれを受け入れられるのに、何故かこの時は”もっと嫌そうな顔をすれば良いものを”と関羽は思った。
その理由が自分でもわからず、余計にいらつく。
張遼は、そんな関羽に気づくと戯に視線を投げ、言った。
「殿、我らは一息つくので遠慮なくお使い下され。定刻になれば、自由には使えぬだろう」
「ありがとう…お言葉に甘えて、遠慮なく使わせていただく」
戯は、そう張遼に返すと得物を拾い広場に向かって歩き出す。
張遼は、関羽に一言二言声をかけ戯のいた辺りの回廊まで歩み、木製の欄干に背を向けると腕を組んで寄りかかった。
関羽もまた、張遼にならい回廊へ向かって歩く。
戯がすれ違いざま軽く会釈したが、軽く目を伏せる程度に返して一瞥した。
張遼の右手側二尺ほど先に建っている柱を背に、関羽は手にしていた得物を握ったまま地に立て、仁王立ちになってただじっと戯に視線をやる。
視線の先の戯は、深く一呼吸すると緩やかに得物を振り始めた。
それが徐々に速さを増し、十を数える頃には緩急のある鋭いものへと変化していった。
幾分明るくなった空が、日の出を知らせる。
視界に入る空がやけに朱い。
こういう日は、大体天気が崩れる、と関羽は頭の端で思った。
視線の先では戯が得物を繰り出し、あるいは繰り込み流れるように身を翻して、その動きは止むことがない。
一分の乱れも隙もないその動きに、思わず関羽は見入った。
そして同時に、どれ程の鍛練をしてきたのだろうか、と思った。
張遼が戦場において打ち負かされたと聞いたとき、俄かに信じることは出来なかったが心のどこかで納得した。
ふいに、かたわらにいた張遼が口を開く。
「雲長殿、つかぬことをお聞きするが…もしや殿のことお嫌いか?」
思いもよらない友の質問に、関羽は一瞬どきりとした。
ほんの僅か考えて、すぐさま答えた。
「…自分でもよく分からぬ」
それは事実だ。
嫌い、と表現すればよいのか、かといって嫌いではない、と即答も出来ない。
自分の中でもうまく消化できない感情をどう言葉に表せばよいのか、関羽自身よく分からなかった。
張遼は、意外だ、という表情をしていたが、関羽は視線を戯から外さなかったので、それに気づくことは無い。
ただ、関羽ははぐらかすつもりもなく、ただ事実を述べている。
それは張遼にも分かったし、関羽の性格上、そうそうはぐらかすようなことはしないだろうと思っていた。
「さようか…雲長殿にしては珍しく曖昧ですな」
「文遠殿、からかっているのか?」
「いやいや、まさか。ただ、意外だ…と。らしくない、と思ったまで…悪意はござらん」
関羽は張遼をちらりと見やって視線を戻し、また暫く考えた。
言葉を探すが、やはり的確なものは見つからなかった。
「……俺にもよく分からぬ。嫌い、というか苦手…が近いのかもしれぬが…少し違う気がするのだ……だが、それがよく分からぬ」
「ますます意外…新たな発見があったという意味では、今日は良き日かもしれませんな」
「からかわんでくれ、文遠殿…これでも俺は困っているのだ」
「ふふ…さようか」
他人事のように笑う張遼に関羽はため息をついて、内心ふてくされた。
この友は、前からこのようであっただろうか、と戯に視線を戻しながら思った。
関羽は、もやもやとした気持ちを抱いたまま戯の動きを追って目だけを動かしていたが、もう一度ため息をつくと誰にともなく、ひとりごちた。
「いっそ、この方が答えが出るやもしれん…」
同時に戯のいる方へ歩を進める。
張遼は視線を上げて、関羽の背を見やった。
もっと分かりやすく物事をみる男だったと思うが、関羽とはこのような男だっただろうか、と思った。
このように葛藤する姿を見るのは初めてだった。
関羽は一定の距離まで来ると、その歩を止めた。
戯がそれに気づき動きを止める。
得物を突き出した右手を下ろしながら、関羽の方へ顔を向けた。
呼吸を静かに整えているのが分かる。
関羽は、どうしたのか、とそう問いかけてくる戯の表情を確認して口を開いた。
「手合せ願いたい」
ただ一言、そう告げた。
戯は一瞬目を見開いたが、関羽の真剣な眼差しを見て向き直る。
いつの間にか、空は薄水色にかわっていた。
「お受けいたします…ただ、私では力不足かもしれませんが」
「力不足かどうかは、俺が決めること」
「そうでしたね」
笑みを浮かべ、目を伏せる戯。
関羽は心の中で眉根を寄せた。
戯が目を開ける。
関羽の目を真っ直ぐに見た。
「よろしくお願いします、関殿」
口元にはまだ、笑みがあった。
嫌味のような色は無かった。
関羽は表情を変えずに返した。
「こちらこそお願いいたす、戯殿」
やはり、どこか冷たい声だった。
だが、関羽はもう気にするのをやめた。
戯が二歩、三歩と間合いを取る。
一瞬でその表情が変わった。
戯の鋭い眼差しに、身体中が無意識のうちに緊張する。
と同時に、関羽は気持ちが高揚するのも感じていた。
戯から視線を外さず、右回りにゆっくりと歩む。
じっとりと互いが睨みあっていたのは、ほんの僅かな時間だった。
どこかでまた犬が遠吠えをした。
その瞬間、関羽は地を蹴った。
自分の一振り目をどう受けるのか、試したかった。
左から右へ大きく得物を薙ぎ払う。
瞬間、戯の姿が視界から消えた。
すかさず視線を下方に移すと、戯がしゃがんだ身体をばねの様に使って既に得物を繰り出している。
それをみとめて関羽は間合いを取りながら右にかわした。
そして右足を踏ん張ると、右の手のひらを上に反し手にしていた得物を今度は右から左へ薙ぎ払う。
戯は繰り出した得物の両端が空と地面を向くように拳を起こし、その握りを緩めた。
得物が戯の手の中で滑り落ちたかと思うと、下端から二尺ほどの位置を左手で握り、同時に素早く右手の手のひらを相手に向けて反し自身の額よりやや高い位置で握り直す。
瞬間、戯の胸と鎖骨の間あたりの高さを薙いだ関羽の得物は、ちょうどその位置を守るように垂直に立てられた戯の得物によって遮られた。
と、同時に勢いを殺される感覚に関羽は僅かに目を見張った。
関羽の動きの一瞬の硬直を見逃さず、自身の体勢を立て直しながら戯は再び間合いを取った。
柄を握り直して構える。
関羽もまた、構え直した。
「さすが、文遠殿から一本取っただけのことはある」
「…… ……」
戯は、それには無言だった。
緊張で肩に力が入るのを、呼吸することでほどく。
息を鼻から吸って、口からゆっくり吐き出した。
戯は意外に思っていた。
関羽の容赦のない、それでいて潔い動き。
もう少し慎重に行動する男だと考えていた。
だが、少なくとも武を前にすれば、その考えは違っていたことになる。
慎重さは、後から覚えたものかもしれない、と頭の隅で思った。
戯が関羽に正面を向けたまま、右へ一歩二歩とにじると、関羽もまた一歩二歩と並行する。
戯が五歩目を数えようとしたとき、再び関羽が地を蹴った。
すかさず、戯も地を蹴り互いが互いの間合いを詰める。
戯が一瞬早く得物を繰り出す。
関羽はそれを力で払いのけると、上段から切り下ろした。
戯は柄を握る右手を緩め左手を反すと、てこの原理で右手を自分の身体の外へ弾き飛ばす。
その方が、自分の腕を直に動かすより遥かに早く反応できるからだ。
両腕を大きく広げる体勢になったのと同時に、右足で強く地を蹴って関羽が切り下ろした得物がその体に届くほんの僅か一瞬早く、後方へ退いた。
そして左足が着地すると同時、左手を後ろ手に素早く右手へ得物を持ち直して構えを取ると、今度は右足で地を蹴って関羽の懐に飛び込み再び得物を繰り出した。
しかし、既に体勢を立て直していた関羽が一手早く薙ぐ。
戯は繰り出す得物を素早く引き戻して、自分の右から飛んでくる攻撃を受け流した。
間髪入れず、関羽が更に次へ次へと繰り出す。
戯はそれを巧みに受け流し、あるいは躱していった。
戯の額に冷たい汗が流れる。
「(早い…しかも、一撃の重さが文遠殿の比じゃない…)」
体格の差かとも思ったが、そうではない、とすぐさまその考えを打ち消した。
それだけではない、この関羽と言う男に恐ろしい程の武の才があり、またそれに驕ることのない鍛練の数・努力を怠っていないのだ。
こと、武というものに対して隙がないのだ、と戯は考えた。
呂布の武を戯は知らなかったが、ひとまず、現在の漢の国中で関羽と一対一で勝てるものはそういないだろう、と思った。
一撃一撃入れるたび意図的にその力が殺されているのだと関羽が確信したのは、三撃目を入れた時だ。
最初の一撃こそ、まぐれかも知れないと思ったが、それは思い違いだった。
確実に一撃を殺してくる巧みさに驚いた。
こちらの攻撃の軌道を読めたとしても力の加減ひとつ間違えば、得物はその身に入るか、あるいは力の反動で体勢が崩れ容易に隙が出来るだろう。
だが、それが一切ないのだ。
どれほどの鍛練を行ってきたのか、益々興味がわいた。
と同時に、戯という人間そのものに興味をもった。
そして、自分の中に生まれた矛盾に関羽は驚いたが、この手合いで気分が高揚しているせいかそれでも構わない、と思った。
自分の中の分からない答えも、この手合いが終わる頃には出せるだろう、とどこかで思っていた。
張遼は、思わず生唾を呑みこんで二人の手合いに見入る。
関羽は、元の主君呂布ほどの武はないがそれでも自分に比べれば遥か上を行っている。
そう思っているのだが、その関羽と女である戯が多少押され気味ではあるものの、数十撃も渡り合っているのだ。
その手合いを見ていると、戯が女であることなど忘れてしまう。
他の誰が見ても、きっと戯が女だなどと思わないだろう。
張遼は、しかし不利だ、と思った。
戯が女だからではなく、手にした得物がただの棒だからだ。
普段、戯が手にする得物は長戟だ。
矛のような刺で繰り出し、戈のような援で薙ぎ又は引っかけるなどして攻める。
だが、棒では繰り出したり、薙いだりはできても引っかけることは出来ない。
体格でも力でも劣る戯にとって、攻め手が減るのは何より不利なのだ。
そこをどう補うのか、張遼はその動きに注視した。
しかし、それを見ることなく、それは突然終わりを告げる。
何合目かの後、関羽が得物を突き出した。
戯は咄嗟に、その突きを柄で巧みに受け止める。
だが、瞬間その突きに戯の手にした得物が耐えられず、大きな音を立てて折れたのだ。
かろうじて繊維同士で繋がってはいるものの、ひしゃげたそれは、もう使い物にはならない。
戯の首のすぐ横で関羽の得物が空を切る。
戯が生唾を呑みこむと、関羽は得物をゆっくりと下げた。
そして、どちらともなく思い出したかのように、荒く呼吸を始めた。
「さすが、関殿。それが偃月刀であったなら、私の首は飛んでたろうな」
「そんなことはあるまい。貴方がそうであるように、”これ”なりに俺も動いたまで。もし、貴方が貴方自身の得物を構えていたのなら、俺の首も分かるまいよ」
「…そうか」
関羽は、これ、と手にした得物を少し持ち上げて見せる。
戯は、軽く目を伏せ、肯定とも否定とも取れない言葉で返答した。
息を吐くたび、白い靄が出来ては消えた。
様子を見ていた張遼が二人の近くまで来ると、ほぼ同時に関羽が口を開く。
「それにしても…これほどの業を持っていながら貴方が女人であるのは、致し方ないとはいえ、勿体ない」
関羽がそう告げると、戯は一瞬だけ目を見張り、次いで小首を傾げ笑った。
張遼は足を止め、驚きを隠さず関羽を見る。
「流石、関殿。やはり、気づいておられた」
「雲長殿…いつから気づいて…?」
張遼の言葉に、関羽は視線だけちらりと向ける。
なぜそんなことを聞くのか、と思いながら張遼に顔を向けて関羽は答えた。
「初めからだ。気づかぬ方が不思議というものだが」
言葉をなくす張遼。
そんな張遼の反応に、関羽が不思議に思い片眉を上げる。
戯は思わず顎に手をあてクスクスと笑った。
「そうおっしゃるが、何の前情報もなしにいきなり私を女だと見抜いたのは、関殿…貴方ひとりだけだ」
笑いを止めない戯に関羽が視線を戻す。
ずっと抱いていた違和感と疑問が心の中に渦巻いていた。
戯は、関羽の視線に気づいて顔を上げる。
関羽が戯に問うた。
「なぜ、俺のことを字で呼ばぬ?兄者と会った時は呼んでいたであろう」
「……私に字で呼ばれるのをあまり好ましく思っていない、と感じたので」
戯は悪びれも無く言った。
関羽は自分の心の中でちりりと疼く何かを感じ、それを抑えるように息を吐く。
大きな靄が消えた。
「今わかった…貴方の何が俺は気に入らないのか」
戯と張遼が関羽に視線を向けた。
構わず関羽は続ける。
「貴方のそういう所が嫌いなのだ、殿…貴方の、そうやって自分の意見を、まるで俺の意見の様に述べて俺に押し付ける、そういう所が俺は嫌いなのだ。俺はそんなことは微塵も思ってもいないし、考えてもいない。それは殿の意見であり、俺の意見ではない。俺が貴方のことを知らないように、貴方も俺のことを知らない…貴方から分かったように言われるのが、俺は気に入らないのだ」
そこまで一気に言って、関羽はまた一つ大きく息を吐いた。
張遼は困惑気味に両者を交互に見やる。
どこかでまた犬が遠吠えをしていた。
途端、戯が声を上げて笑った。
関羽と張遼は訝しんで戯を見やる。
戯は口元と腹を手で押さえ、また笑いを抑えるようにして口を開いた。
「なるほど、たしかに…それはそのとおりだ…ははは、たしかにそうだ、たしかにそうだが…初めてだよ、そんなことを言われたのは、雲長殿…ははは…」
「…そんなにおかしなことを俺は言ったか」
「いやいや、難しいと思ってね、人と話をするのは。今日は朝から文武とも勉強させてもらった、ありがとう」
そう、まったく、人を見て、それを判断するのは難しいものだ。
戯は内心、そう呟きながら目尻を人差し指で拭った。
答えは出たが、なんだか腑に落ちないこの状況に関羽は眉根を寄せたが、まあ良いか、と思った。
手合せをしたことで、戯に対して純粋な興味を抱いたのは確かだ。
こうして時折、気に入らない気持ちを抱くことはあるが、そのうち気にならなくなるだろうと思った。
今はただ、戯のことが知りたい。
そして、ありのままの自分を見てくれればそれで良い。
そう思いながら戯を見た。
まだ笑っている戯に、そんなにおかしいことを言ったのか、と再度自分に問うたが、その答えが出ることは無い。
大きく息を吐き出した。
「お二方、どうです?早点でも」
ふと張遼がそう問いかける。
戯が張遼に顔を向けた。
「それは良い、文遠殿。恥ずかしながら、実は腹が空き過ぎて今にも鳴りそうなのだ」
「実は俺もだ、殿。どこか良いところを知らぬか?文遠殿」
「そうだな…」
「それなら、私が知っている。あそこの親爺なら何を作らせても美味い。文遠殿も知っているところだ、ほら、あの角を右に曲がった先の左手にある…」
「ああ、あそこか。良いだろう」
戯の言葉に、思い当たる場所を思い出し、張遼が首を縦に振る。
関羽は二人の顔を交互に見やった。
「ならば、殿にお任せしよう」
「ああ、お任せあれ。行くとしよう」
行って戯が一歩踏み出す。
それに倣うように、関羽と張遼もまたその両脇に並んだ。
回廊へ向かう途中、関羽がところで、と口を開く。
「殿…それはどこへ弁償すればよいか」
関羽がそれ、と戯が左手にしている二本の棒を指差す。
戯はそれに気づいて手元を一瞥した後、関羽の方へ視線を上げた。
「ああ、これ?…気にしなくていい、特別頑丈なのを一本入れておく。これは手戟の基本動作を覚えるのに使えるだろう」
少し長いか、と小首を傾げる戯。
まあともかく気にしないでくれ、と付け加え関羽に念を押す。
関羽はすまない、と軽く頭を下げた。
戯は、あまり気にされても自分が困る、と手を振る。
まだ薄暗い回廊を歩きながら関羽が再び戯に問うた。
「殿、ところで貴方は、普段どんな鍛練をされておるのか?」
「それは、私が問いたい、雲長殿。貴方の動きはあまりに早くてついていくのがやっとだ」
戯は思わず歩を止めて関羽の方を振り向いた。
関羽はいや、と手を振る。
「俺も殿の巧みさには舌を巻く。それこそついていくのは骨が折れた」
と、立ち止まった関羽と戯の話が弾む。
終わりそうにない話に、張遼がわざとらしく咳ばらいをした。
関羽と戯が同時に顔を向ける。
「お二方…よもや俺のことをお忘れでは…?」
呆れた顔の張遼に、戯は笑顔で近づく。
「いやだな、文遠殿。忘れてないさ…行こう」
言って無意識に張遼の袖を軽く掴んだ。
関羽を振り向いて戯が言う。
「雲長殿、続きは着いてから、またゆっくり」
そう微笑むと、張遼から手をはなして回廊を先に進む。
関羽と張遼は戯のその背中を呆けた気持ちで見送った。
どちらともなく顔を見合わせる。
関羽が口を開いた。
「文遠殿…彼女はいつもあのような感じなのか?」
「ああ、まあ…我々が思っている以上に気さくであるのは確か…少なくとも執務中と戦場での彼女の姿からは想像することすら難しい」
おかげで随分助けられているが、と付け加え張遼は戯に視線を戻す。
ほう、と関羽は張遼を見た。
友が変わったと思ったのは、あながち間違いではなさそうだ、と関羽もまた戯に視線を戻す。
口元に笑みが浮かんだのは、ほとんど無意識だった。
ふと、視線の先の戯がこちらを振り向く。
「文遠殿、雲長殿、置いていくぞ」
その言葉に、関羽と張遼は顔を見合わせた。
張遼がふっと笑う。
「行きましょうか、雲長殿」
「そうだな…俺もゆっくり話がしたい、文遠殿とも…殿とも」
言って、関羽が戯を見やる。
張遼もつられて戯を見た。
どちらともなく歩き出すと、それを確認した戯が回廊の突き当りを右に曲がった。
棒を戻し、あとを追う。
回廊の暗がりから木戸の敷居をまたぐと冬の寒空に巻雲が広がっていた。
戯がその下で二人を待っている。
どちらともなく、顔を見合わせて一歩踏み出した。
肌を掠める風が今は心地よかった。
因みに、鍛練場に、鍛練用の棒が一足先に関羽によって一本新調されていたことを知り、まったく律儀で仕事が早い、と戯が思ったのは翌朝のことである――。
つづく⇒
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