戯家の愚人 ― 双ツ無キ者ノ死・後 ―
一九八年冬十二月、癸酉の日。
呂布は、その軍師・陳宮、配下の高順らとともに曹操の命により処刑された。
雪のちらつく、寒い日だった。
曹操は、執務室の椅子に腰かけながら、何をするでもなく、ただ窓外を眺めていた。
窓枠に嵌められた格子越しに牡丹雪が落ちてゆく。
ぱちりと、火鉢にくべた炭が音を立てた。
昨晩、ここ下邳で戦勝を祝う宴を催した。
兵たちを労い、特に戦功の目覚ましい者には褒美を与えた。
戯が捕虜として連れてきた張遼は、麾下の将兵ごと配下へ迎え入れた。
宮城の外では、兵や下邳の民たちが城内の戦後の片付や修繕などを行っている筈だが、不思議とそれ程騒がしくはなかった。
あと数日で年が明ける。
暫く許には帰れそうにないが、他にすべきことが山積みで今は帰りたいとも思わなかった。
『一番信用できないのは、その男だぞ!』
ふと、呂布の放った最後の言葉が脳裏に響く。
呂布を配下に加えたいと、諦めのつかない心の奥底でそう願っていた。
昨日、呂布を前にしたあの時、自分を配下に、と叫んだ呂布の言葉で揺らいだ心を劉備の声が制した。
『彼は先の主であった丁建陽、養父であった董仲穎を殺しています。曹公おひとりが例外になれるとお考えですか?』
その言葉が耳に届いたとき、劉備の肩越しに戯と目が合った。
自分でも、そんなことは分かっていたが、諦められなかったのだ。
そんな己に、戯はただ瞬きを一つしただけだったが、言わんとしていることは劉備と同じだと理解した。
何故かすっと諦めがついたのを覚えている。
身体が軽くなるような感覚だ。
次には既に命じていた。
『絞首刑に処す』
と。
わめき散らす呂布が遠のく。
視界の端に、呂布を見据える劉備の顔が映る。
その眼差しは強く、しかし、何を考えているのかは読み取れない。
じわりと何かが込み上げてくる。
それは、呂布に抱いていたそれと同じ。
常にあって、”その者たち”を前にした時と同じ思い。
一度や二度経験したものではない。
それは今まで何度も経験したものだ。
そして、劉備に対して抱いたこの思いは、これが初めてでもなかった。
彼と対峙するたびに思う。
まるで恋でもしているように。
そこまで思い出して、曹操は、その時と同じく自分を嘲笑するように、ふっと片側の口角をあげた。
「主公、です」
戸の向こうから戯の声がした。
少し前に、配下のものを遣わせて呼び出していた。
入れ、と一言答えると、失礼します、と返答の後、戸がすっと開かれた。
兜こそ外していたが、甲冑姿の戯が拱手して頭を下げた。
「何か、急用ですか?」
「用事がなければ呼んでは駄目か?」
「いや、そういうわけでは…」
戯の言葉に曹操がすかさず、拗ねたように問う。
困惑しながら、戯が返答する。
戦場では予想の遥か先を行く戯でも、この時ばかりは分けが違う。
曹操は、愉しくなって笑った。
「冗談だ、全く、からかい甲斐がある」
「……」
むっすり口をつぐむ戯を尻目に、呵呵と笑う。
「まあ、拗ねるな。だが、おかげで気分が晴れた」
「それは、ようございました」
棒読みの戯に、曹操はすまん、すまん、と言いながら手招く。
戯は、渋々と言った様子で、曹操を見下してしまわない程度の距離まで歩み寄った。
曹操が口を開く。
「なあ、。玄徳のこと、そなたはどう見る?」
突然の問いに、しかし先とは違って、その先の意味を理解したように聞き返す。
「どう、とは?」
「言葉のままだ。俺は、あやつを配下に迎えたい、と思っている」
「仲徳殿たちが、また騒ぎます」
「だから、だ。だから、の意見を聞きたい」
徐に、曹操が立ち上がる。
左手に位置した窓辺まで歩むと、戯に背を向けて窓外をみやった。
「奉孝にも反対された。機を見て消すべきだ、とな」
「存じております」
「だが、俺はあやつの才が欲しい」
振り向いた曹操の目は、兒童のように輝いていた。
「まったく、あなたという人は本当に、人が好きなのだな」
戯は、右手を腰にあてながら、呆れたように言う。
そんな戯烈に曹操が笑う。
「一番は、だがな」
「…あ、そう」
戯は一層呆れて、興味なさそうに言った。
曹操は、しかし意に介した様子もなく一言。
「つれぬな」
それには少し、語気を強めて、
「当たり前だ」
そう返した。
曹操は、本当につれない、といった風に腕を組む。
ふくれっ面をして見せる曹操に、戯はひとつ咳払いをした。
「…それより、さっきの問いだけど…」
ひとつ区切りを打って、曹操に向き直る。
曹操もまた、それまでの冗談めかした空気をかえて、戯の目を見た。
それを確認して、戯が口を開く。
「人材として見るならば、劉公叔は逸材だと思う」
高すぎもせず、低すぎることもない声が耳に届く。
曹操は体勢をかえずに、戯の言葉に集中した。
「気づくと周りに人がいる、人が惹かれる何かが特に突出している。事実、彼が主公の下にいる、というだけでわが軍の名声も一気に上がった。人材として見るなら、この稀有な才能を持った劉玄徳という男は最高だ。けど…」
徐に戯が目を伏せる。
一呼吸置くと、目を開けて続けた。
「配下として見るならば、危険だ」
その目は、まっすぐに曹操を見ていた。
曹操は、ただ戯の言葉を聞いている。
窓の外では、既に白く染まっているそこに、止むことなく雪が積もっていく。
戯は、唇を湿すと更に続けた。
「人の下で大人しくしているような玉じゃない、劉玄徳という男は。もろ刃の剣だ。主公と思いが同じなら、あるいは同じ道を歩めるかもしれないが、残念ながら彼の目指すものは主公とは違う」
そこで、いや、と小さく戯が呟く。
顎に右手を添えて探るように視線を落とし、目を細めた。
「目指すものは同じなのかもしれない。けど、その手段が違う」
手をおろしながら、戯が顔をあげる。
「彼はきっと、主公の道を一緒に歩めない」
まっすぐに曹操を見る。
「その時点で彼は、主公の下にはつかないし、きっとその道を阻止しようとする。劉玄徳という男には手綱はつけられない」
一度、大きく息を吸った。
そして、ひとつひとつ言葉の意味を確かめるように言った。
「恐らく彼も、主公と同じように、何かを満たすものではなく、受け入れられるものを持った、器だ」
曹操もまた、戯をまっすぐに見る。
視線を外さず、しかし、ふいに目を細め口を開いた。
「はは、面白い」
組んだ腕をほどきながら、右手で顔を覆った。
口から笑いが漏れる。
腹を抱えるように笑う曹操に、戯は一瞬面を食らう。
ぴたりと笑いが止まった。
そして、右手の合間から視線を向けて静かに言う。
「実に面白いぞ、。奉孝も同じように、手綱は無意味だと言っていた」
思わず、戯は息を呑んだ。
手をおろしながら続ける。
「だが、俺はあやつを殺さん。暫く、様子を見る」
そう言う曹操の顔には、先ほどの何かを見透かすようなものはなく、どこか悪戯小僧のような顔をして笑って見せる。
「…最初から、そのつもりだったんでしょうが…」
呆れて小さく呟く。
何か言ったか?と、片眉を上げてみせる曹操に、戯は、なにも、と興味なさげに返した。
「それよりも、」
と、曹操。
普段より少しだけ声音を上げて言う曹操に、戯は伏せていた目をあけて、視線を曹操の方にあげた。
暗に、なんですか?と問う。
「さきの、器の例えは実に面白いな」
曹操の言葉の意図が分からず、そう、ですか?と歯切れ悪く答える。
曹操は、腕を組みなおして頷いて見せた。
「うむ、実に面白い。そこでだ、」
そこまで言うと、徐に腕を下ろして、戯との間合いをつめた。
近づく曹操に、戯は一瞬戸惑う。
「な、なんですか?」
三尺程の距離で曹操は止まると、上目づかいにうかがう戯に顔だけ近づけて言った。
「そなたの顔に傷がつけられ、傷心している俺の心を満たしてはくれないか?」
間近で言われ、自分自身でも訳が分からず、戯は僅かに顔を染めて声をあげる。
「な、な、なに言ってるのか全っ然、わかんない!」
一歩後ずさろうとする戯を、曹操はすかさず自分の方へ引き寄せてその腕におさめた。
「ちょ、はなして…」
戯は、そこから抜け出ようとするが、全く身動きが取れない。
部屋が暖かいからとは関係なく、身体が汗ばむ。
そんな戯を尻目に、曹操はその右肩に顔を預けて言う。
「全くもって、そなたの顔に傷をつけた輩が憎らしいぞ。玄徳なんぞより、そいつを殺したいぐらいだ」
「っ、傷の一つや二つ、戦場に出たのだからつくだろう」
曹操の丸まった背中ごしに、窓外を見ながら言う。
「そんなものは関係ない」
尚も、自分の後ろとも横ともつかない場所から聞こえてくる声に戯は半ば呆れながら言った。
「医者も傷は消えると言っていた」
「そういう問題ではない」
曹操はそう言うと、大きくため息をつく。
「わからぬやつだな、」
言って、戯の首筋に顔をうずめた。
すぅっと、下から上へ息が吹きかかり、思わず肩をすくめる。
「やっ、くすぐったい」
はじかれたように、曹操の両肩を掴んで引き離そうとするが、びくともしない。
戯が声を上げた。
「普通、”友”にこういうことする!?」
「俺はする」
だが、曹操は意に介せず、けろっと言う。
益々、戯は向きになって声を荒げた。
だから、意図せずして言ってしまったのだ。
「ウソつけ!元譲殿にはしないでしょ!」
と。
曹操は最初こそ、
「あやつは友ではない。腐れ縁の従兄弟だ」
と、それこそ普通に返したが、はたとその言葉の意味に気づいて問いただした。
「…ん?、そなた元譲のこと、字で呼んでいるのか?」
戯はそこで、しまった、と気づくが後の祭りである。
もはや、自分の顔のすぐ横に曹操の顔があることなど、どうでも良くなっていた。
「え、いや、ちょっと…妙才殿と…」
「妙才のこともか…!」
しどろもどろになりながら、しかし更に失言を重ねて答える戯に曹操がいよいよ身体を起こす。
戯は、心の中で頭を抱えた。
そんなことは露知らず、戯烈の両肩をがっしりと掴んで曹操が真正面から叫ぶ。
「何故、俺のことは字で呼んでくれんのだ…!」
その悲壮な叫びと言ったら。
半泣きになる曹操に、思わず戯は気圧されて、絞り出すように反論する。
「だって、主公は、主公です…!」
しかし、それに曹操が納得する筈もなく。
「酷いぞ、!俺だけ仲間外れか」
「だから、そういう問題じゃ…」
今にも泣き出しそうな曹操が勢いよく戯に抱きつく。
なされるがままの戯。
そしてそれは、深く考えもせず、流石に可愛そうだったかな、と戯が思い始めた時だった。
「張文遠、参りました」
閉じた戸の向こうから落ち着いた声が響く。
曹操が顔をふいに上げ、戸の方に視線を向けて答えた。
「入ってよいぞ」
「失礼つかま…っつりました…」
すっと戸があいて視線を上げながら答えたその人は、しかし自分が言おうとしていた言葉を皆まで言わず、何とか腹の中に押し込むと、これまた何とか別な言葉を繋げて一歩出そうとしていた足を引っ込めた。
踵を返そうとするその人に、戯は身動きが取れないまま声だけ上げる。
「あ〜、誤解です張殿…!」
「いや、取り込み中とは知らず、とんだ無礼を…」
尚もその場を後にしようとする張遼に、曹操が抱きとめる戯の頭を抱えながら張遼の目を覗き込むように言った。
「気にするな、文遠。何、の顔に傷がついて傷心していた俺の心を、自身に慰めてもらっていただけだ」
「だーかーらー、意味が分からないし、誤解を招くような言い方をするな!」
すかさず戯が突っ込む。
「張殿も、そういう訳なので、誤解ですから!」
身動きが取れぬまま言うので、全く説得力がない。
「はあ…」
と、何とも間の抜けた返答しか出来ない張遼だった。
そんな張遼を尻目に、曹操は戯をはなすと、両肩を掴んだまま真っ直ぐに、真顔で言った。
「まったく、そなたは冗談が通じぬな…」
「だ・れ・がっ」
戯は、呆れるんだか、腹が立つんだか、なんとも言えない心境でそれだけ返した。
曹操はそんな戯に、呵呵と笑う。
むくれる戯を確認して、曹操は張遼に顔を向けた。
「ま、冗談はさて置きだ」
戯が空気を察して、曹操から2,3歩距離をとる。
張遼は、敷居の手前に立ったままだ。
曹操は張遼に向き直ると、さて、と前置きをして口を開いた。
「文遠、そなたを呼んだのは大した用ではないのだがな」
言いながら、手招きする。
張遼は短く答えると、敷居をまたぎ、一歩前へ出た。
そこに居直り、曹操をまっすぐに見る。
「なに、改めて今後を期待している、と伝えたかっただけだ。よろしく頼むぞ」
「もったいなきお言葉です。この張文遠、身命を賭して主公の御為に、お仕え致しまする」
思いもよらない曹操の言葉に、張遼は精一杯の言葉で返した。
拱手して片膝をつく。
一拍置いたのち、ふいに言葉が降ってきた。
「それから、余談だがな。に手を出したら許さん」
それは、冗談のように聞こえるが、室内から流れてくる暖気のような温かさはなく、背後の庭に積もる雪のようにどこか冷たいものだったと、後日、張遼は北伐行軍下、共に従軍する軍師・郭嘉に対して漏らしている。
―――さておき。
短く、承諾の意を示す張遼を横に、戯は曹操にすかさず突っ込む。
「だから、どうしてそういう事を言うのかな!」
そして、張遼に向き直って付け加えた。
「張殿も間に受けなくて良いですからね」
まったく…、と腕を組む戯。
張遼は、呆気にとられるしかなかった。
尻目に曹操は笑っているが、左手を腰に当てると踵を返す。
「まあ、良いわ。二人とも、下がってよいぞ」
執務机の椅子に腰を掛けると、二人の方へ身体を向けず、頬杖をついて視線だけ流す。
「用があれば、また呼ぶ」
それを聞いて、張遼が立ち上がり拱手する。
戯もまた、曹操に向き直って拱手した。
雪が吹き込む回廊を、張遼とその一歩後ろを戯が歩く。
ふと、戯が足を止めると、その気配を察して張遼が後ろを振り向いた。
「張殿。改めて、これからよろしくお願いします」
そう言って、四尺ほど先で拱手する戯に、張遼が拱手して答える。
「いや、こちらこそお願い致す、戯殿。それから…」
そこで区切ると、張遼は頭を上げて戯をまっすぐに見る。
戯もまた、拱手した手を崩さず真っ直ぐに張遼を見た。
「戯殿とは一戦交えた仲。まして、俺の方が新参者ゆえ、そのように畏まらず…俺のことも、文遠と」
拱手した手を上げて言う張遼に、戯は一瞬目を見開いたが、直ぐにおさめて笑みを作ると、同じように拱手したままの手を上げた。
「…わかった、ならば私のこともと。文遠殿」
「承知いたした、殿」
どちらともなく手を崩して笑いあう。
雪が積もる、かすかな音が耳に届く。
ところで、と遠慮気味に張遼が切り出す。
戯はそれに、首をかしげて見せた。
少しの間ののち、張遼は歯切れが悪そうに口を閉ざした。
「…いや、なんでもござらん」
そんな張遼に、戯は顎に手をやって問う。
「もしかして、先の主公とのことか?」
益々口を閉ざす張遼に、戯はしばらく視線を向けるが、考えるように一度視線を横に流す。
そして、何か思いついたのか手をおろしながら、改めて問うた。
「…単刀直入にお聞きするが、文遠殿は私が龍陽とお考えか?」
「っいや、誠に失礼つかまつった!」
それは、本当にわかりやすい返答だった。
戯は一瞬豆鉄砲を食らったように目を見開くと、しかし、直ぐに可笑しくなって笑い出した。
「あはは、違う違う。それが誤解なんだって」
今度は張遼が豆鉄砲を食らう番だった。
涙を浮かべて笑う戯に、戸惑うだけの張遼。
戯は深呼吸をして息を整えると、浮かべた涙を指で拭いながら口を開いた。
「ひけらかすつもりはないし、かと言って、隠すつもりも無いんだけど、私女なんだよね、これでも」
張遼にしてみれば、本日2度目の豆鉄砲。
回廊の欄干に歩み寄ると、自分の腰ほどの高さのそこに戯は両手をついて彼方を見やった。
空からは相変わらずの牡丹雪。
張遼は、戯の背中を見つめた。
聞いてしまうと、余計に小さく見えるそれ。
戯は背を向けたまま続ける。
「私の腹違いの兄が主公にお仕えしいて、事情で亡くなったんだけど、そんな縁で主公に良くしてもらってる、というだけ」
戯の声は明るった。
表情は見えないが、ただ明るかった。
「ありがたいけど、主公の冗談が度を超えていて、少し困っているだけよ」
言って振り向く。
「…そう、少し、ね…」
そう付け加えた戯の表情は、明らかに疲れていて、困惑していて、そして、呆れていた。
「そう、でござったか…」
張遼には、そう返すしかなかった。
だが一呼吸おくと、口元を覆うように右手をあてて口内で小さく呟いた。
「いや…しかし…」
戯が、疑問符を浮かべ首を傾ぐ。
張遼は、そんな戯に気づいて視線をあげた。
「いや、まさか貴殿が女人だったとは…」
そう呟いた張遼に、戯は思わず笑った。
「あはは、可愛い娘じゃなくて申し訳ない」
張遼が手を振る。
「いや、そういうことではない」
そして手を下ろして続けた。
「まさか、とは思ったのだ。だが、本当にそのまさか、だったとは」
戯は、分からない、といった風に眉根を寄せた。
張遼は、同時に戦場でのことを思い出す。
手を掴んだとき、腕を掴まれたとき。
その時の違和感は、やはりこれだったのか、と。
そして、初めてお互い戟を構え対峙した時のことを思い出した。
あの、隙のない構えと、吸い込まれそうな恐怖。
今目の前にいて、先ほどから目の当たりにしている人物と似ても似つかない、あの纏う空気。
心の奥で、何かがちりっと疼いた。
その、今まさに生まれたそれは、張遼自身にも小さすぎて気づかないものだったが、それは確かに張遼の中で生まれ、そして今、張遼に戯に対する興味を抱かせた。
しかし、まだそれには気づいていない張遼は、右手で首の後ろをさすりながら言った。
「主公のお気に入りの、しかも女人の顔に傷をつけたとあっては、憎まれても仕方がない」
すかさず、戯が声を上げる。
「だから、それは誤解だってば」
「では、そういうことにしておこう」
今度は張遼が笑って見せる。
腑に落ちない、と腕を組みながら、戯が一言。
「…ひっかかるなあ」
心なしか拗ねる戯に、張遼が呵呵と笑う。
二人の他に誰もいない回廊だったが、雪が音を吸って響くことはなかった。
「ははは、いや、しかし殿には知らなかったとはいえ、申し訳ないことを」
居直りながら、張遼が言う。
頭を下げると、戯は両手を振った。
「いやいや、主公にも申し上げたが、戦場に出る以上、傷の一つや二つできるのは仕方のないこと。気にしないで欲しい」
顔を上げた張遼に、付け加える。
「医者もわからなくなると言っていた」
内心、張遼は胸をなで下ろす。
戯は、張遼の僅かな緊張がほぐれたのを感じ取って、普段よりも幾分、声音を高くして切り出した。
「さて、仕事に戻ろう。文遠殿も中途で来たのだろう?」
張遼は短く答える。
「ああ」
「あと5日もすれば年が明ける、片づけられるものは片づけておきたいし」
徐に、戯が数歩張遼の前に出る。
張遼はそれを目で追って戯を見た。
背を向けたまま戯は、言った。
「それに、民たちには年明けぐらい心置きなく過ごしてもらいたい」
振り向いた表情は、笑ってはいたがどこか悲しそうに見えた。
「…まあ、こんなことの後だから、手放しには喜べないとは思うが」
「すまぬ」
「いや、違うんだ。文遠殿のことを悪く言っているのではない」
張遼は、すかさず謝ったが、戯は首を振って、すぐにそれを否定した。
そして口を開く。
「此度の水攻めに関しては、私の献策でもあった。ただ、それだけのことだ」
「さようか」
言外の意味を汲取って、張遼は短く答えた。
同時に、自分の元主君の命を奪う、決定的な転機を作ったのが戯だったのだと、初めて知った。
てっきり、主軍の軍師の誰かが考え付いたことだと思っていた。
自分と対峙しながら、あの緊張の中で情報を集め、策を練っていたのかと思うと、舌を巻いた。
内心、驚いている張遼を尻目に、気持ちを切り替えた戯烈が声をかける。
「行こう」
此方を向き、後ろ向きに数歩歩き出す戯に、短く答えた。
「ああ」
前に向き直り、歩く戯の背を見て、張遼は少しだけ、心が躍った。
新たな主君のもと、これから共にそこへ従事できることが、こんなに楽しみだと思ったことはなかった。
敵として対峙してから曹操の軍門に下って、たった1日しか経っていなかったが、例え敵であったことが悩みや苦しみの原因となったとしても、戯がいれば気にはならない、と思った。
曹操の軍門に下ることに、誰にも明かせない小さな不安があったのは事実だったが、それは今、自分の前で吹き飛んで行った。
そのことに、ふと気づいて、張遼は可笑しくなって嘲るように小さく笑う。
30にもなる男が、全く情けない、と先を歩く戯の背中を見つめた。
色の無い、白い世界の導に思えた。
つづく⇒
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