戯家の愚人 ― 双ツ無キ者ノ死・中壱 ―
十二月に入った。
雪がちらつく寒い日の朝だった。
下邳城に立て篭もる呂布陣営の士気はここにきて、愕然と下がった。
二ヶ月以上に及ぶ城攻め。
四方を包囲されているだけでも心身ともに疲弊しきると言うもの。
そんな折での、水攻めである。
城に立て篭もる兵も、将も朝一番のこの光景にはただ呆然と立ち尽くした。
城内一面、浸水していた。
側近くを流れる川の上流の堤を切られたのだろう、と何名かは思った。
城内の水路はその川から引いていた。
川自体の流量が増えれば、当然城内の水路の流量も増える。
その増水量は如何程か――
考えたくも無かった。
市場も、民家も、田畑も、全てが水に浸かっていた。
自ずと皆、宮城へと非難した。
宮城は高台に築かれていたからだ。
誰一人、言葉を交わすものは無かった。
ただ、絶望と恐怖と、今すぐにでも逃げ出してしまいたい衝動に駆られていた。
昼夜を問わず駆けた。
それでも脱落者は一人もいなかった。
強行軍は、選りすぐった二四〇の騎馬だ。
残りには後から追いつけばいい、とだけ伝えてある。
張遼は奥歯をかみしめた。
本陣としている下邳の城が八日程前に水攻めにあった、という報せを四日前に受けていた。
つまり、下邳は今、水に浸かって十日を優に数えていると言うことだ。
もう、勝ち目はないように思えたが、そういうことは考えたくなかった。
報せを伝令から受けた日、兵の声で対峙する敵陣の異変に気付いた。
落ち着いて頭数を数えてみると、兵数がかなり減っていたのだ。
行動におこそうとした時には遅く、残りもあっという間に馬を駆けて逃げられてしまった。
一〇〇騎ほどだった。
すぐに追っ手を出したが、まかれて帰ってきた。
斥候の情報だけが頼りだった。
敵の放置された陣を探ってみると、かなり前から徐々に兵を逃がしていたことがわかったが、後の祭りだ。
全く気付けなかった自分に腹が立った。
丁度、斥候が戻ってきて告げた。
敵の一〇〇騎は沂水に向かって南下している、と。
この戦況を覆せるのか?
わからなかったが、ただ、諦めたくは無かった。
せめて、この一隊だけでも下したかった。
部下に指示を出して、そして張遼は駆けた。
途中、再び斥候の情報で、沂水沿いを下流に向かっていることがわかった。
逃げている、と思っていたのだ。
だから、陣を発ってから五日目の日のことは、本当に予想外の出来事だった。
東には増水した川が流れ、西には小さな雑木林がまばらに点在している。
その間を、八〇の騎馬が南に向かって駆けていた。
殿にいるのは戯だ。
左右に視線をやって、しきりに周辺の状況を確認していた。
元々一二〇騎だったが、途中で四〇騎を分隊した。
後ろに視線をやると、敵が迫っていた。
恐らく二里もないだろう。
今頃、敵も通過してきたであろう沂水に架けた橋を、分けた四〇の部下達が落している筈だ。
敵が兵を分けて追ってくるかどうかは、殆ど賭けのようなものだった。
もし分けずに追ってきていたら、少し考えねばならない。
だが斥候の報告で、敵が二〇〇程の強行軍で追ってきていると知ったとき、その賭けに勝ったと思った。
後は自分の策略通り、伏兵に合図を出すだけだった。
必要なのは、その機を逃さないこと。
早すぎても遅すぎても駄目だ。
風を切って駆ける。
空気は身を切るように冷たかった。
だが、熱くなった身体には丁度良いと思った。
上体を起こして、手にした戟を高らかと掲げた。
鬨の声が当たりに溢れかえった。
張遼の放った一撃を、戯が得物で受ける。
互いの戟の柄と柄が交差して鍔迫り合いになった。
足懸かりのない馬上は、どちらにとっても不安定だった。
このまま力同士がぶつかれば、戯が不利であるのは目に見えていた。
戯が咄嗟に力を抜くと、支えを無くした張遼の身体がぐらついた。
そのまま、落馬するかという瞬間、張遼は戯の得物を掴んだ。
戯の身体もまた、それにつられて不安定となり、二人ほぼ同時に地面に叩きつけられていた。
が、すかさず二人同時に起き上がり、その場に居直る。
その距離は、僅か八歩程だ。
地面は解けた雪でぬかるんでいた。
二人は泥にまみれたが、そんなことは全く意に介していなかった。
周囲は、騎馬や兵士でごった返している。
乱戦だったが、二人の間に入ってくるものはいなかった。
二人の気迫が、それを拒んでいた。
戯の得物は、まだ張遼が手にしていた。
視線だけは絶対に外さず、腰に佩いた剣に手を伸ばそうとした時、張遼が徐に口を開いた。
「俺は騎都尉の任にある、張文遠と申す。貴殿の名を聞きたい」
その言葉に、戯は周囲への警戒を解かずに、静かに、だが相手に聞こえるように答えた。
「潁川は都尉の任。戯」
戯は、その一瞬に見えた張遼の驚きの色を見逃さなかった。
「何に驚く?名を問うたのは貴方だ」
戯が体制を変えずに言うと、張遼もまた体制を変えずに言った。
「これは失礼致した。深い意味は御座らぬ。ただ、貴殿の用兵が巧みだった故、どこの将軍かと思っていたまでのこと。貴殿が将軍の位ではないことが少々意外であったのだ」
嫌味の無い答えが、剣戟に混じって戯の耳に届いた。
嘲笑って言っているようには聞こえない。
「・・・褒め言葉として、受け取っておく」
戯は、適当にそう答えた。
張遼が目元を緩めたのを見逃さなかったが、それには何も答えなかった。
「受け取られよ、戯都尉殿」
暫くもせず、張遼はそう言うと、手にしていた得物の片方をその持ち主へ向かって放った。
戯は視界の端でそれを確認して受け取る。
視線はずっと張遼から外されずに、今もまだ、そこに注がれていた。
「何の真似だ?」
静かに、しかし語気を強めて戯が言う。
張遼が、それに答えて言った。
「貴殿と改めて一戦交えたい」
その言葉に、戯は得物を手にした右手を下ろしたまま言う。
「わからないな。貴方なら、今すぐにでも私の不意をついて、この首を獲り勝利を得られようものを・・・何故、そうしない?」
直立不動の張遼が答える。
「最初はそうしようと思っていた。だが、貴殿に一太刀浴びせた時、貴殿のその瞳を見て気が変わったのだ。それに・・・」
そこで言葉を区切ると、張遼は戟を構える。
切っ先がぴたりと戯に向けられていた。
「そう易々とこの首はやらん、そう貴殿の眼は言っているように俺には見える」
戯の口元に笑みが浮かんだ。
それは張遼に対して友好的なものでもなければ、かといって馬鹿にしているようなものでもなく、なんとも捉えにくい笑みだった。
「ならば、仕方ないな」
戯はそれだけ言うと、静かに戟を構えた。
言葉の意味まではわからなかった。
だが、瞬間、張遼は息を呑んだ。
主と仰ぐ呂布の構えは、寸分の隙も無く、相手を畏怖させるような空気を纏う。
威圧的で、その瞳を見れば足が竦んでしまう、一歩も動けなくなってしまうような、正しく恐怖そのものだ。
だが、目の前の相手は違う。
隙がないという点では同じなのだが、他が違うのだ。
凛と研ぎ澄まされた空気が肌に突き刺さる。
一種の恐怖を感じるが、それは頭ごなしの恐怖ではなく、吸い込まれるような恐怖。
酷く澄んだ湖の、深淵を覗き込むような、そんな恐怖だった。
今まで向き合ったことのない恐怖だ。
そしてそれが、何故か美しいと思った。
同性に可笑しな話だ、と内心頭を振りながら、張遼は今一度、得物を握りなおした。
僅かに、手の内が湿っていた。
取り殺されるのかもしれない、とそうどこかで思った。
「いざ」
掛け声と共に地を蹴った。
足が地に着く度、離れる度に泥が跳ねる。
薙ぐように一撃を繰り出す瞬間、戯が一歩踏み込んだのが見えた。
得物と得物が交わる。
だが、すぐに張遼を不思議な感覚が襲った。
流された、そう感じながら体制を整える。
対峙する位置が、お互い入れ替わっていた。
張遼の眉間には皺が寄せられている。
得物の先の戯の表情は、静かで落ち着いたものだった。
周囲の剣戟の音が遠くに聞こえる。
粉雪が、ちらりちらりと舞っていた。
つづく⇒
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