時は得難くして失い易し
戯家の愚人 ― 双ツ無キ者ノ死・前 ―
曹操軍が彭城を下したのが九月。
その後、陳珪、陳登親子の手引きもあり呂布軍に連戦連勝、逃げる呂布は下邳城に立て篭もり篭城を決め込んでいる。
が、この篭城が図らずも苦戦を強いらせている原因となっていた。
下邳を包囲してから、かれこれ二ヶ月半が経とうとしていた。
急がなければ、包囲を解かざるを得なくなる。
兵糧の問題もあったし、これから本格的になる、寒さの問題もあった。
雪が降り始めれば、兵の体力消耗は避けられない。
それに伴って士気も格段に下がるだろう。
曹操は内心焦っていたが、それは表には出さず、眼前に鎮座する下邳城を見つめていた。
吐く息は白い。
僅かな頭痛を覚えながら、徐に兵を呼び寄せた。
「参謀達を呼べ、軍議だ」
走り去っていく足音を背に、一つ深呼吸をした。
――時は数日戻る。
張遼の軍と対陣してから、こちらはそろそろ三ヶ月が経とうとしていた。
戯の隊だ。
お互い、足止めが第一任務なので、然程激しい攻防は繰り広げていなかったが、流石に兵達の顔には疲れの色が出ていた。
そんな彼らを叱咤激励するように、戯は不定期ではあったが陣内を歩いて回った。
陣の周囲への注意を怠らないようにするための措置でもあった。
今もこうして、松明に照らされた陣内を隅々まで回っている。
自分が顔を見せれば、今まで俯いていた兵達の顔にも明るいものがさす。
その顔に、自分もまた勇気付けられる。
しかし、そんなことを繰り返して一体、どれだけの日を過ごしただろう。
本軍も、下邳を包囲したまでは良かったが、それ以降膠着の状態が続いていると言う。
なんでもいい、何か打開策を考えなければ、そう思いながら戯は幕の中に入った。
顔を上げると、視界に飛び込んでくるのは、壁にかけた徐州一帯の地図だ。
斥候の情報と元々知っている情報とを合わせて書き上げた地図。
ふと、下邳城の周囲を流れる川に目がいった。
上流に二本の川の合流地点、そして、それぞれ一箇所ずつ堤がある事を示す印が付けられている。
同時に斥候の言葉を思い出す。
この川はよく氾濫を起こす、だから堤が設けられているのだ、と。
はたと気付いて、戯は幕の奥まで進むと、台に置いてあった紙に筆を滑らせた。
だが一瞬、躊躇いに似た思いがよぎって筆を止める。
今から献策しようと考えているのは水攻めだ。
水攻めは、民の生活に多大な影響を与える酷な策だ。
果たしてこれが、最善の策だろうか、と。
しかし、ここで動かなければ本軍は包囲網を解いて引き上げねばならない。
そうなれば、またいつ呂布を討つ機会が巡ってくるだろうか。
その時もまた、袁紹は大人しくしているだろうか。
張繍や手を組んでいる劉表が今大人しくしているのは、事前にけん制したからだ。
次にまた上手くいくとは限らない。
そして、自分達もこのまま敵と対峙していても、不利になるだけだ。
何度か小競り合いはしたが、このあと大きくぶつかり合う時が来ないとは限らない。
負傷者はそれだけ増え、一層状況は悪化する。
それだけは避けなければならない。
だが、今のこの状況を大きく覆すための動きを、この場で起こすというのは無理に近い。
だから、別の場所で動いてもらうしかないのだ。
戯は意を決すると、再び筆を動かし、そして外に聞こえる程度の声を上げた。
「季長」
「はい、ここに」
間髪入れず聞こえた返事に言った。
「入れ」
言われて、陽蒋が中に入ってくる。
陽蒋は、筆を手にしている戯を見て拱手した。
「どなたにお届けしますか?」
「主公へ、至急だ」
「承知しました」
頭を上げると、戯が目の前にいて文書を差し出していた。
「これで動く。下が動けば、変わる。他のものにも指示を出す、敵に気取られぬように気をつけよ」
戯の緊迫した面持ちに、陽蒋は生唾を飲み込んだ。
いよいよなのだ、と心のどこかで思った。
「何か策は無いのか?急がねば包囲を解かざるを得なくなる」
曹操は後ろ手に手を組んで背を向けたまま、そう言った。
その背を荀ケと程cは気まずそうに見ていた。
いくらかお互いに話し合ってみたものの、良い策が浮かんでくることはなかった。
寒空、といってもいいだろう。
薄く棚引く雲が青空を漂っていた。
どうしたものかと思っていると、横に並ぶ気配を感じてそちらを見やる。
郭嘉と荀攸だった。
「主公、上策お持ちしました」
郭嘉が拱手して頭を下げた。
曹操が顔を少し動かして言う。
「奉孝か、話してみろ」
「はい、続きは公達殿が」
「奉孝!」
程cが小さく喚いたが、曹操は笑いながら良い、と言って荀攸を促した。
主君の平時と変わらぬ反応に、程cは心は未だ乱れていないのだと、ほっとしつつも、同時に内心恐ろしい人だと、改めて感じていた。
「では私から・・・」
「申し上げます!」
荀攸が口を開きかけた時、後方から声が上がった。
気付いた程cが再び声を荒げたが、振り向いた曹操が再びそれを制した。
「構わぬ、伝令であろう。申せ」
「は。戯都尉から火急とのことで文を預かって御座います!」
その言葉に、正面を向いたままだった程c以外の三人が一斉に伝令の兵に顔を向ける。
「から火急の報せ、か。持ってこい、読もう」
程cが兵から折り畳んだ文を受け、曹操のもとへ渡す。
恭しく差し出されたそれを曹操は受け取ると、ぱらりと開くのと同時に口を開いた。
「公達、先程の続きを話せ」
「はい・・・」
文に目を通し始める曹操を上目に見ながら、荀攸は話し始めた。
「申し上げます。この下邳城を北上した所に、泗水と沂水という二本の川の合流地点が御座います。その合流した川は下邳を迂回するように流れているのですが、元々この辺りは水害に悩まされておりました。そのため、この上流地点、二本が合流する前地点にそれぞれ堤を設けてあるのです」
「つまり、水攻めしろ、ということだな」
文から目を外した曹操が荀攸を見てそう言った。
「はい」
荀攸はそう言って頭を下げる。
一拍置いて、郭嘉が一歩前に出た。
「ところで主公、は何て言ってるんですか?」
荀ケが再度喚く程cを抑えるようにしているが、今更そんなことは気にしない郭嘉である。
曹操もまた、気にせずに答えた。
「知りたいか?皆で読んでみよ。やはり、は傍に置くべきだった」
文を受け取る郭嘉。
その手元を荀攸、荀ケ、程cが覗き込む。
曹操が伝令に問うた。
「そなた、いつこの文を受け取ってきた?」
「五日前に」
「五日前か、駆けたな。ご苦労だった、が、まだ頑張ってもらわねばならぬな」
「滅相もございません」
緊張しているのか強張っている伝令を見て、曹操はふっと笑った。
視線を参謀四人に移す。
四人とも、まさか、という顔をしていた。
なぜなら、そこに書かれていた内容が、今荀攸が話していたものと同じだったこと。
そして、堤の正確な場所と、どう動くべきかが書かれていたからだ。
「ここに居ない人間から、こちらの攻め方を指示されるとはな。さあ、は既に動いているぞ。公達、仲徳」
「「は」」
「文通りなら、四日後にはの兵が沂水の堤に到達する、それまでに泗水の堤まで兵を送らねばならん、急げ。泗水側の堤に関しての指示は全て二人に任せる、行け」
「「は」」
荀攸と程cが拱手してその場を後にする。
「奉孝、文若」
「「は」」
「お前達二人にはの兵への支援とその他全面援護をしてもらう。敵に気取られぬように動け、動かせ、良いな」
「「は」」
「奉孝、文は俺が預かろう」
曹操が手を差し出すと、郭嘉が文を手渡した。
拱手して去っていく背を見て、再び曹操が口を開いた。
「伝令、戯都尉に伝えよ。万事、相、分かった。指示通り動いておる故、己の任に専念せよ、と」
「は」
下邳城を振り向いて、遠ざかっていく足音を背で聞く。
ゆっくりと目を閉じた。
馬の嘶きが聞こえた気がした。
つづく⇒
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