戯家の愚人 ― 双ツ無キ者ノ生・後 ―
遥か前方に、黒い塊のようなものが確認できた。
段々と大きくなってくるそれは規則正しく上下している。
傍らにいた副官が一言、来た、と呟いた。
周囲の兵の緊張と興奮が空気で伝わってくる。
張遼は、それを制するように左手を上げ、静めるよう諭した。
物言わぬ令に、兵達は各々徐々に呼吸を整えながら、気を静める。
空気が落ち着き始めた頃、張遼は手を下ろしながら同時に、肩から力を抜いて、息を殺した。
塊は前方三里ほどにまで迫っていた。
陽蒋は、停止の号令を下した戯のもとに馬を進めて問うた。
「都尉、どうなさったのですか?」
戯は真っ直ぐ、二里ほど前方に見える小高い山を見つめて視線を外さない。
裾に、山道への入り口が見えた。
あれを進み山を越えれば、その先には斥候の話していた邑があるのだろう、と陽蒋は思った。
視線を戯に戻す。
「季長、適当に2人連れて来い。他は待機だ」
言って、馬を進める戯。
陽蒋は後ろを振り向いて、前列の二人を名指しすると、他は待機と告げて戯の後を追う。
山裾まで一里をきったところで戯が馬の足を止めた。
戯の跨る馬は、黒鹿毛の牡馬だった。
以前、曹操から賜った馬とは違う個体で、こちらは市場まで足を運んで自分で目利きしてきた馬だ。
普段は大人しいが、ひとたび実戦の場に出ればその実力たるや目を見張るものがある。
その黒鹿毛の背からひとしきり辺りを見回して、戯が陽蒋に視線を寄越した。
「輜重隊がいつ追いつくか、把握しているか?季長」
「はい、半刻以内には追いついてくるものと」
「結構。では、輜重隊が追いつき次第、陣を張ると皆に伝えておけ。場所は追って指示する」
連れてきた一人に伝えに行くように、と目配せする戯の意を読み取って、陽蒋が拱手する。
即座に後ろに控える、内一人に指示を出した。
だが、その真意がわからない。
戯に視線を戻すと、すかさずそこから声がした。
「解せぬ、という顔だな」
笑っていたが、いやな気持ちにはならない笑い方だった。
戯が視線を正面に戻して口を開く。
「空気が違うのがわかるか?」
その言葉に再び陽蒋は疑問符を浮かべる。
後方に控える兵もそうだ。
戯はそんな二人の反応に構わず続ける。
「一種、独特の空気がある。例えるなら、そうだな、狩られる寸前の獲物が感じ取るような危機感、とでも言っておこうか」
それでもやはり、わからなそうな顔だった。
戯はそんな反応を見て、声を上げて笑った。
「ま、そのうちわかるようになるさ。彼の太公も六韜の中で”精神先ずあらわる”と言っているだろう?」
ああ、ちょっと意味が違うか、と中空に目をやる戯に陽蒋はついていけない。
視線を戻しながら戯が再び口を開いた。
「後は、勘、だな」
発せられた言葉に、思わず陽蒋は、勘?と聞き返した。
戯は悪びれもせずに言う。
「ああ、勘だ。そう馬鹿には出来ないさ。こいつのお陰で助かった命もあるからな・・・」
陽蒋は、そういって彼方に視線をやる戯の顔を見つめた。
勘なんて、という言葉を出せるような空気ではなかった。
本当に、そういう場面に出くわしたのだろう、そう思わせる表情が、一瞬だけではあったが垣間見えたのだ。
「まぁ、流石に、それだけが要因とはいかないが」
戯が、声音を変えて陽蒋を振り向く。
陽蒋は首をかしげた。
「・・・では、他には?」
戯が右手を、眼前に横たわる山の端から端までを撫ぜるように動かす。
「何が見える?」
「何、が・・・」
思わずそう呟く陽蒋を戯が横目で見ながら再び口を開く。
「その目に、今、何が見えている?」
「今・・・」
そう呟いて、陽蒋はさっき戯がしていたように、辺りをぐるりと見回した。
うろこ雲の浮かぶ青空、視界一杯に横たわる小高い山、その麓、自分達の居るところまで全てに広がる草原。
枯れた草の香が、そよと吹く風にのって鼻を掠める。
枯れ草の間から小鳥が飛び立つ。
飛び立つ先に視線を送ると、青空を飛ぶ渡り鳥の群れ。
晩秋を思わせる風景だった。
「気付いたことは?」
戯にそう問われたが、陽蒋は答えることはできなかった。
陽蒋の後ろで控えていた兵も、同じように考えていたがわからない。
戯は、そんな二人を見てふっと笑うと空を見上げた。
「鳥がいるだろう。鳥や獣というのは気配に敏感だ。だから、たまにこうやって生き物の動きを注視する」
戯が視線を正面に戻す。
「すると、結構色んな手掛かりが見つかる。例えば、あの山裾の辺りには降り立つ鳥の数が少ない、とかな」
指をさした先は、進行予定だった場所だ。
「成る程、それで都尉はあの辺りに敵が潜んでいるという判断をなさったのですね」
戯はその答えに笑みを見せる。
が、陽蒋は、そこで、はたと気付いて慌て始めた。
「ま、待って下さい、都尉。もし、あそこに敵が潜んでいるのであれば、隊から離れている我々は危険なのではないですか・・・!?」
そんな陽蒋を尻目に戯は落ち着き払って言う。
「出ては来ないさ。あれほど手の込んだことをした相手が、今更そんな簡単な方法に手は出さないだろう、いや出せないだろう。手堅くいきたいと思っている筈だからな。私たちを、隊に戻るまでに討てれば問題はないが、戻ってしまえばそう簡単には行かない。分隊している向こうの兵数はこちらよりも少ない。仮に分隊させていた本隊が潜んでいたとしても兵数は同じだ。正面からぶつかり合えば、お互い相当の被害が及ぶ筈だからな。仮に正面から来るにしても、互いの兵を合流させてからになるだろう。それまでは大人しくしている筈さ。打って出ずに、あそこに未だいるということは、私達を足止めしておくことが目的だろうからな。出てくるつもりなら、もう既に攻撃に出ている」
「都尉はあそこには二〇〇ではなく、四〇〇がいるとお考えなのですか?」
「私はそう思っているよ、季長。敵の動きが解せないのだ。途中、行軍速度を上げたのは、敵の本陣に合流するためではなく、こちらに引き返すための策だと思っている」
陽蒋も傍らの兵も驚いていたが戯は気にせず言った。
「さあ、そろそろ戻ろう」
二人を促すようにして馬首をかえす。
戻ったら何か策でも練ろうか、と付け加えて。
陽蒋は、山裾をちらりと見やってから戯の後を追った。
「感づかれたのでしょうか?」
「そうかもしれぬな」
副官の言葉に、張遼は短く答えた。
「どうしますか?打って出ますか?」
「いや、このまま待機だ」
去っていく三つの影をただ見つめる。
表情まではわからずとも、一里も無かった距離だ。
馬上にあれば、すぐにでもつめられたであろうが、生憎今はその状態にない。
それがとてつもなく、歯がゆく、もどかしい。
恐らく、黒鹿毛の馬上にあった人物が指揮官なのだろう、と張遼は思っていた。
次はどう動くべきか。
張遼は考えた。
今、自分達がすることは敵の兵力を分散させること。
本陣に向かう敵を阻止することだ。
斥候の話では、今眼前に待機している隊以外はこの周辺に向かってくるものはいないという。
ということは、一先ず眼前のこの敵を足止めできていれば良い。
ただし、相手の方が策を弄する上では一枚上手のように思えた。
下手に手を出せば自分達も危うい。
こちらをじっと見て、次の指示を待つ副官に視線を上げて伝えた。
「分隊した兵力を合流させる。伝令を出せ」
副官が短く答えた。
視線を正面に戻すと、黒鹿毛が立ち止まっていた。
小さくなって、色しか認識できないような状態だったが何故か笑っているような気がした。
それをただじっと見つめた。
その向こうを、うろこ雲がゆっくり流れていた。
つづく⇒
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