戯家の愚人 ― 双ツ無キ者ノ生・中 ―























「張騎都尉、敵はここを通るでしょうか?」



副官の言葉に、張遼はそちらを一瞥して視線を正面に戻した。

「恐らくな」


こうやって草木の陰に息を潜めて、どのぐらいの時間が過ぎただろう。
もう、一日半はこうして過ごしていた。

この一帯は平野が広がっているが、丘陵も点在する。
視界の先は一面の草原だが、端々に小高い丘が見て取れた。
草原は丈の高い雑草が多くを占めていて、所々腰の高さを超えるだろう草が生えていたり、紅葉した雑木も立っていた。
水に恵まれているのだろうと思った。
部下の情報によれば、この辺りには大小含め多くの湖があり、また小さな支流も含めれば五〇を超える河川がかしこにあるのだという。
雨季には、しばしば水害に悩まされている、そういう民の声もその情報の中に含まれていた。



「ここを通るように、わざとこちらの情報を流してある。例え、こちらに来なかったとしても、南方へ迂回すればもう一隊伏せているのだ。あとはこちらの思惑通り、敵が動くのを待つしかない」

「そうですね」



視線を正面から外さずに続けた張遼の言葉に、副官が頷く。
うろこ雲の浮かぶ空は穏やかだった。
たまに吹く風が僅かに肌寒い。

南北八〇里にわたって横たわる、標高一六〇〇尺の山々の数箇所に四〇〇尺程の低地がある。
そこは民がこの山を越えるには容易な場所で、いつのまにか林道となっていた。
その道を抜けるとすぐ、いくつかの邑が存在する。
その林道の邑の反対の出入り口に今、張遼たちは伏せていた。

放った斥候の情報によれば、敵の騎馬隊はこの付近を北へ向けて進行中とのことだ。
十中八九、自分達を食い止めるための遊撃隊、といったところだろう。
或いは、大きく迂回して味方の本体を後ろから攻撃するつもりなのか。
どちらにせよ、敵も斥候を放っている筈だ。
いち早く、相手の情報を手に入れなければ、自分達が不利になっていくというのはお互いに言えることなのだから。

そこで、この付近のいくつかの邑を通過しながら、わざと情報を落してきた。
自分達の方が、進軍速度が速かった、というのがあったからこそできたことだが、それは当然のことだと思っていた。
遊牧の盛んな土地で生まれ、育ったのだ。
馬を操り、またそれを調教すると言うことに関しては自信を持っている。
おいそれと、他の地方の人間に劣ることなどありはしない、と。


さておき、今の段階で、敵が北、或いは南を迂回してこの山を越えるには余りに時間を要する。
まして急を要するこの時だ。
一番近い、この林道を通過して山の反対がわに出るに違いない。
だが、万が一と言うこともあるので通らざるを得ない状況を作ることにしたのだ。

それは、この反対側の邑とそこからずっと南下したところにある邑との間で、二〇〇の騎馬を分隊して伏すように指示を出し、一度その先の邑まで進軍して自分たちの足跡を残してから、こちらにまた戻ってくる、ということである。
無論、これらは全て邑の人間に知られるように、それとなく情報を流している。
しかし、これは、敵が自分達を追ってきている、ということを前提にした話だ。
もし、そうではなかったら意味がなくなるが、それは殆ど考えにくい。
だから、後は待つしかなかった。
敵が、罠に嵌るのを。

張遼は、息を大きく吸いこむと、目を閉じてゆっくりそれを吐き出した。
各々の騎馬は然程遠くないところに、一箇所に集めて待機させている。
乗馬したままでは隠れにくいためである。
こういう戦い方は苦手だと、心の隅で張遼は思った。

















どのぐらい進んだだろうか。
丁度、東海国との国境―といっても県境と同義だが―に差し掛かったところで一頭の馬が近づいてきた。
は、進軍の速度をゆるめず、右手に並行して走り始めたその馬上の人をちらりと見やって視線を前に戻しながら口を開いた。



「何か情報が掴めたか?」



それは、放った数名のうちの一人の斥候である。
馬で動いているものもいれば、その脚のみで動いているものもいる。
そのすぐ後ろを駆ける陽蒋も斥候の情報に耳を傾けた。



「はい、五日前にここから三四〇里先の邑を通過しています。そこから、約二七〇里南下した所にある邑、丁度右手に見える山を越えて七〇里程北上したところにある邑なのですが、そこを三日前に通過しています。また、さらに一四〇里ほど南下した邑には二日前の巳の刻までに入り、午の刻を待たずして出立した模様です」



は、耳を疑った。

最初の報告でさえ、早い行軍だと思っていたのに、二つ目の邑から三つ目の邑までの行軍は通常行軍の速度の一.五倍以上だ。
途中でどうしても休みを入れなければ、人馬ともにへたってしまうと言うのに夜明けからの時間を目一杯にして計算してみても二刻半ほどで到達してしまっている。



「それは本当か?」

「間違いありません」


余程、馬に巧みなのか、はたまた相当に兵馬とも鍛えられているのか。
恐らく両方なのだろう。

「・・・」


緊迫した空気が流れる。
が無言で右手をあげるのを見て、同じく我が耳を疑っていた陽蒋が後続に止まるよう号令を出した。

騎馬が一斉に止まる。
馬が何頭か嘶いて、その荒い息遣いが耳に届いた。
が、斥候の方を振り向いて、改めて口を開く。


「まだ、何かあるな?そのままで良いから話せ」

「はい」
斥候は一度頭を下げると、上目遣いに切り出した。


「これは付近をたまたま通ったと言う旅人の情報なのですが、二つ目の邑から三つ目の邑の間で、どうやら部隊を二つに分けたようなのです。二〇〇騎程の一隊と残りは本隊のようで、その分かれた二〇〇騎は、あの山腹に向かって消えた、ということです」



斥候が、あの山、と今は戯の正面に見える山を指差した。
は、暫くじっとその山を見つめると、再び斥候に視線を移し問う。



「このあたりの地形は調べてあるか?」

「は、ここに」



すかさず斥候が答えて、懐から何やら四つ折にされた布切れを出し戯に差し出した。
がそれを受け取って広げるのを陽蒋は目で追う。
間を置かず、戯がその口元に笑みを作った。

「よく調べてあるな、助かる」

斥候はそれに答えるように、軽く会釈をした。
それを確認してから、戯は視線を陽蒋に向ける。
暗に、近くに来て一緒に見ろ、とその視線は告げていた。
陽蒋がその意味を解したのと同時に、戯が下馬する。
慌てて陽蒋と斥候が下馬するのと、戯が後続に、そのまま待機、と号したのとはほぼ同時だった。

陽蒋が戯のもとへ数歩歩んでその手元を覗き込む。
の手元にある布には、この当りの地形が細かに描かれていた。
斥候もまた、戯に促されてそれを覗き込むように立っていた。
頭一個分も違う上司を、陽蒋は見やった。
下馬した自分の上司は、そういえば、是ほどに背が低かったのだと思い知らされる。
今は鎧に身を包んでいるから分かりにくいが、そういえば、体格もそれ程がっちりしている方ではないのだ。
どちらかといえば、武器を持っているより、筆を持っている方が似合うような。

それなのに、戦場に出れば他の将軍に引けを取らない程の働きをする。
近くにいて、何故か安心感を得られるのだ。
何より、頼りになる存在だった。



「・・・聞いているのか?季長」



ふいに戯に字を呼ばれて、はっとする。
聞いております、と大きく頷いた。



「ならば良い、それで話の続きだが」

言って戯は、地形図に指を滑らせながら説明を続けた。
陽蒋の知らぬ間に、地形図は斥候が広げていた。



「今、我らはここにいる。そして、先方はここで分隊し、本隊はそのまま南下した、それで良いのだな?」

が斥候に目配せし、頷くのを確認すると再び視線を落した。

「ということは、簡単に考えれば、この三つ目の邑の近くの林道、若しくは、引返して二つ目の邑の林道のどちらかに、伏兵を配した、と見るのが妥当か。今の我らの位置から見ると、山を迂回するには北を回るも南を回るも時間がかかりすぎるからな・・・確率は二分の一ということになる」

「・・・それで、都尉はどの道を通るおつもりですか?」

「ここから一番近い道を通る」



の言葉に陽蒋が怪訝そうに眉根を寄せる。
そんな陽蒋に気付いて、戯がふっと笑った。


「なあ、季長。この敵は、何が目的だと思う?何を目標に動いているのだと思う?」

陽蒋が数度、目を瞬かせた。

「敵の本陣に合流することか?それとも、主公率いる本隊を衝くことか?はたまた、我らが敵を阻もうとしているように、我らの進軍を阻止することか?」



ふいに、戯が空を仰いだ。
頭上を渡り鳥が列を成して飛んでいる。
南へ向かっていた。
視線で追わずにいると、時をかけずに戯の視界からそれは消えた。



「私には確かめたいことがあるのだ、季長」

そう言って、真っ直ぐに陽蒋を見つめる。



「都尉に従います」



陽蒋はそれだけ答えた。
のゆるがない瞳は、何か考え合ってのことだ。
それが何か、聞けば恐らく何かしら答えてくれるのだろうが、しかしそれでも、自分達の考えでは及ばないような事を考えている人なのだ。
そう思ったら、ただついてゆく事が自分達にとっての最善に思えた。
は笑みを浮かべた後、号令を出した。
目的の場所へ駒を進めるために。






















つづく⇒




 いい訳とか。↓(拍手いつも有難う御座います
*ちなみに、文中の八〇里は約35q、一六〇〇尺は約384m、四〇〇尺は約96mです(魏・晋時の数値で)




やってることがはちゃめちゃですね。


ここまでお付き合い下さり有難う御座います!


2011.02