日昳 ここはいつ来ても薄暗い。 少しひんやりとする空気、独特の香り。 明り取りの窓を開ける。 ずらりと並ぶ竹簡の輪郭が浮かぶ。 それが視界を埋め尽くす。 傍らの書机(つくえ)に先ほど置いた、数十本の竹簡のうち二本を手に取り、書棚に向かう。 調べものをするために借りたそれを元の場所へ戻すだけだが、我ながら借りすぎてしまった、ともう一度書机に視線をやった。 女官に託しても良かったが、自分で借りたものだ。 信じない訳ではないが、万が一にでも元の場所へ戻っていなかった、などと言うことにはしたくない。 他にしなければならないことも山積しているが、気分転換には丁度良いかと思いながら私は書棚から手を下ろした。 踵を返す。 視線をそちらへ移すと同時に、そこに現れた殿と目が合った。 一瞬肩を揺らした視線の先の殿は明らかに驚いた様子で、胸に両手を当てている。 晒しの巻かれたその手が目に映る。 「び、びっくりした!荀彧さんか…ごめんなさい、窓開いてたので人がいるなってのは分かってたんですけど」 失礼でしたね、と言いながら殿は眉尻を下げた。 私も驚きはしたが、人が来たことよりも、それが殿だったことに驚いた。 出仕しはじめて間もない彼女にまだ慣れきれていない自分がいる。 私は跳ねる鼓動を誤魔化すように、殿に言った。 「いいえ、こちらこそ驚かせてしまってすみません。殿は…郭嘉殿のお遣いですか?」 「いえ。郭嘉さんから、今日はもう好きに過ごしていい、と言われたので…本…書でも読ませていただこうかと」 「そうでしたか。殿は勉強熱心なのですね」 「そんなことは…、ただ知らないものが多すぎるだけです。それこそ話にならないぐらい」 そう言って殿は苦笑いを浮かべる。 それから、気を取り直すように視線を上げた。 「ところで、荀彧さんは何をなさってるんですか?調べもの…ですか?」 「いいえ、借りていた書を戻していました」 書机の上に視線を投げながらそう答える。 それに気付いたのか、殿もまた書机に視線を移した。 「わあ、沢山ありますね…ちょっと意外です」 その言葉の意図が分からず、私は内心首をかしげる。 すると、はっとしたように殿が慌てた様子でこちらを振り向いた。 「あ、いえ意外っていうのは…その、書を元に戻したりするのって、もっと庶務っぽい方とか、女官さん達がするのかなって思ってたので…荀彧さんが直接なさるっていうのが、意外だと……私はたまたま皆さんとお話させてもらってますけど、なんだかんだ、皆さん地位的には上の方たちばかりなので、そういう雑務みたいなことってご自分ではなさらないものだと、勝手に思ってましたから」 「なるほど、そういうことですか。そうですね…ほとんどの方は女官に言いつけることが多いかもしれません……殿が居た所では違うのですか?」 「はい、向こう…私のいた会社では基本そういうことは自分で全てやります。中には自分でやらずに部下に指示を出す人もいますし、他の会社や職場ではまた違うと思いますが…」 「殿はご自分でなさっていたのですね」 「はい。わざわざ人を動かすほどのものでもないですから…けど、あの量をお一人だと大変だと思います」 そう言って、殿は再び視線を書机に投げた。 すると一拍ほど置いて、その殿がそうだ、と言って両手を鳴らす。 「お邪魔じゃなければ、私手伝います」 どうですか?と付け加えて、こちらを振り向いた。 願ってもない申し出だった。 気分転換、とはいいつつも余り時間をかけるのも良くない。 しかし、それでも彼女の時間を貰うことに変わりは無い。 「いいのですか?折角のお時間を頂くことになってしまいますが」 「構わないです。書の位置も確かめられて、一石二鳥です」 満面の笑みを浮かべる殿に、思わず顔が綻ぶ。 頑なに断っても悪い、と自分に言い訳をして頷いた。 「そうおっしゃって下さるのでしたら、お願いします」 「良かった。荀彧さんには色々とご迷惑をおかけしているので…自分勝手ですが、何かお力になりたかったんです」 「そうでしたか…、心当たりはありませんが、殿の気持ちがそれで済むなら、何よりです」 そう返しながら、本当に見当がつかず内心疑問に思う。 迷惑をかけられるようなことを私はいつ、されただろうか。 最近のことを思い出す。 先日郭嘉殿に用事があり、その執務室に行ったとき丁度当人が不在で、書の一部の言葉が分からない、と申し訳なさそうにする殿からそれを質問されたことが頭に浮かんだ。 あのときのことを言っているのだろうか。 しかし、それは然も無いことだ。 やはり、見当はつかない。 書を手に書棚に向かう。 意外にも、殿は書棚と書の位置をある程度知っていた。 郭嘉殿はそんなに頻繁に殿をここへ遣わしているのだろうか、と思いながら再び書を手にする。 最上段から手を下ろしたとき、殿が唐突に言う。 「背が高いっていいですね」 視線を左方へ移すと、殿が私をやや見上げるようにしている。 手には書が一巻き。 殿に向き直る。 意図が分からないまま、言った。 「殿も背は高いと思いますよ」 「いえ、全然駄目です」 言って、首を横に振る。 それから、書棚に向き直りながら視線だけ私に向け言った。 「見てて下さいね」 そう告げると、殿は書を持つ手をその書棚の最上段へと伸ばした。 爪先立ち、腕も身体も目一杯に伸ばしたその拍子に、短く声が漏れる。 書が手から離れると、殿はもとの体勢に戻った。 「…っと、…このとおり、届かないことはないですけど、取るのも戻すのも結構大変なんです。探したいときも少し遠いところから覗かないと見えないですし、かと言っていちいち台を持ってくるのも正直、面倒なんですよね」 本当羨ましい、そう殿はため息混じりに言っていたが、私は別のことを考えていた。 というより、その必死な姿が何故かとても愛おしく思えて、何を考える暇も無かった…というのが実際のところ。 なんてことはない動作の筈なのに、何故こんな気持ちが湧いてくるのか。 今すぐにでも抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。 しかし、そんなことが許されるはずも無い…。 「…そうですか、それは…殿なりに大変なのですね……その、普段もそのように取っておられるのですか?」 やっと口にした言葉が、こんなこと。 私は何を言っているのだろう。 しかし、殿は意外にも何の疑問も持たなかったのか、ごく普通、普段どおりに相槌をうつ。 「いいえ、台を使ってます。何かの拍子にバランスを崩したりしたら、大事(おおごと)になりそうですし……、あ、えーっと、体勢を崩したりして棚倒しちゃったりとかしたら、大変だなって思うので」 「そう、ですね…特に…人前では控えられた方が良いかと思います」 「え?」 「ああ、いえ…その、何といいますか…」 何を私は言っているのだろう。 殿は不思議そうな表情をして首を一度かしげた。 しかし、考えもせずに出た言葉をうまく繕う言い訳が、こういうときに限って見つからない。 そんな私とは対照的に、数拍の後殿が二回、目を瞬かせてから手を打った。 「ああ、分かりました。そうですね、そんな危ないところ人に見られでもしたら、余計なお咎め貰ってしまうかもしれませんよね。もしかしたら、郭嘉さんにも遠まわしに迷惑おかけするかもしれませんし。迂闊なことは出来ませんね」 そう言って、殿は笑みを浮かべた。 迂闊なことが出来ないのは今の自分ではないだろうか、と思いながら曖昧に相槌を打つ。 それから何事も無かったように、残りの書を取りに書机へ向かう殿の背を見て、私は密かに胸を撫で下ろした。 気を引き締めないと、と自分に言い聞かせる。 書を手に棚に向かう殿を再度盗み見てから、それでもたまにならこういう昼下がりがあってもいいと思うと同時に、口元が緩んだ。 ⇒おわり ぼやき(反転してください) ちょっと気分転換に違う話でも クオリティの低さはいつものことです 雰囲気だけでも伝われば、いいです 2018.10.26 ![]() |
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