― 常没有的事(ひにちじょうさはんじ) ―

























「ここのところ奉孝様をお見かけ致しませんね」


がそんな女官の言葉を耳にしたのは立秋を迎えて僅か、しかし太陽がギラギラと照りつく暑い日だった。
この地の者でなければ、冬に雪が降るなどと思わないだろう。
胸に通称・蔡侯紙と呼ばれる紙でできた大きな巻物を6本ほど抱えながら回廊を執務室に向かって歩いていた時のこと、たまたま前方を歩いていた二人の女官の話が聞こえてきたのだ。

そういえば最近見かけないな、と頭の中で思う。
前方を行く女官二人は未だ後方から歩いてくる戯に気づく気配もなく話を続ける。
一方の女官が答える。


「貴方、知らないの?どうも体調をお崩しになられたそうよ。きっと執務のし通しでお疲れだったのね」
「まぁ、そうなの?それじゃ、大変じゃない!可能なら今すぐにでも看病させていただきたいものだわ・・・!」
「本当ね!そんなことがたった一日でもいいから出来たら、わたし次の日死んでも構わないわ!」
「いいえ、どうせなら回復するまでお側にありたいわ。その後はどうなったっていいもの・・!」

「「はぁ...」」



うっとりとしながらそれぞれの世界に入り込んでいる二人を尻目に、戯は女官たちが分からないといった風に眉尻を下げた。
そんなときだ、後ろから戯に声がかかったのは。



殿、手伝いましょうか?」

「長文殿」


その声に初めて自分達の後ろに戯が居ると知った女官二人が、詫びの言葉を口にして回廊の端に寄り頭をさっと下げる。
それは戯が陳羣の方を振り向いたのと同時だった。

「いいえ、大丈夫です。もう、すぐそこですから、それより・・」




言って、女官二人の方を振り向くと、二人の女官が一層頭を下げる。
陳羣が戯の右後方で歩みを止めた。

「先程の事は真ですか?」
が女官に問う。


暫く畏まっていた二人だったが、先程の事は気にしていないから頭を上げて欲しいという戯の言葉に安堵したのか、しかし二人はおずおずと頭を上げると、情報源であった女官が口を開いた。


「―はい、他の者達もそう言っております。初めに言い出した者は、主公が話していらしたのをその場で聞いたのだと」

「そうですか・・・主公がおっしゃっていたのならばまず間違いはありませんね―・・ありがとう」


そう言って、書簡の間から微笑む。
二人はとんでもありませんと、耳まで真っ赤にしながら頭を勢いよく下げた。

歩き出す戯の右から、陳羣が書簡を3本抜き取る。
が陳羣に気を使わなくてもいいというが、鸚鵡返しに同じことを言われて、結局諦め肩を並べて歩いてゆく二人の後方で、残された女官二人はお互いの両の掌を合わせあって小さく声を上げた。
即ち、戯に声をかけられたことと、陳羣と戯が肩を並べていることに。
無論、彼女らは戯のことを未だ男だと思っている数ある女官の内の二人である。
今日も色んな意味で絶好調の女官たちであった。







































そろそろ日も傾き始めてきたかという時分、掌に納まる程度の紙包みを手に道を行くのは戯だ。
己の屋敷とは反対の方向へ幅の広い道を歩いて向かうは郭嘉の屋敷。

塀によって向こうの見えない大きな屋敷がずらりと並ぶその通りは、人影もまばらで夕餉に使うのか食材を手にした人や、その他重たそうな荷を抱える下男下女と思しき人たちが見受けられた。
そこかしこから給仕の音や、炊き出しの煙が昇っている。
ふと絹を身につけた人が前方に見える門から出てきたが、どうやら屋敷の主人などではなく商人のようだ。門の直ぐ外には荷馬車がつけてある。
その開かれた門の内に向かって頭を下げている商人の後方を横目で通り過ぎていった。



風も無く、暑さだけが残る空気。
もう少し日が傾けば過しやすくなるだろうと思いながら、手にした包みに目をやる。

(長文殿はああ言っていたが、聞いたからには放って置くわけにも行かないからな)



昼前、陳羣が言っていた言葉を思い出しながら歩く。
気づけばいつの間にやら、目的の屋敷が前方に見えていた。
その門の前で歩みを止めて木製の門に手をかけようとしたその時だ。
意図せずしてその門が開いた。そこに現れたのは屋敷の主・郭嘉。


「なんだ、じゃないか。何してんだ、こんなところで」


そう言って、郭嘉は不思議そうな顔をして咳をする。
は眉根を寄せて不審がった。

「その言葉、そっくりそのままお返しするよ。風邪で寝込んでるんじゃなかったのか?咳までしてるって言うのに何処へ行くつもりだ、奉孝」
「いや、なに、何日も引き篭もっていても治るものだって治らないと思ってな。ちょっと身体でも動かしにいこうと思っただけさ」

その言葉に戯は目を丸くする。

「驚いたな、まさか奉孝の口からそんな言葉が出てくるなんて。病み上がりのまま外に出ることは感心しないが、身体を動かして少しでも改善しようって言う心意気には感心するな。...それでどこへ?」

それに郭嘉は満面の笑顔でのたまった。




       「妓楼」




「― 蛋吧(ばか)!」
思わず、手にあった包みを郭嘉の顔面めがけて投げつけた。
それは見事に、笑顔の郭嘉の顔面に命中してその手の中に落ちた。


「っ痛ぅ・・・お前、なにすんだよ!病人に向かって」
蛋吧(ばか)!だったら病人らしく大人しく寝てろ!信じられない!!」

前言撤回、そう叫びながら戯は郭嘉の身体を押すと門を閉めて無理矢理屋敷の中へ連れ込んだ。
郭嘉の、自分の手の中にある包みは何なのかという質問を無視して。

程なくしてこの屋敷にも炊事の煙が立ち昇る。
空は朱に包まれていた。






























「それ食べたら薬湯飲んで大人しく寝てな、全く」

牀榻に座り粥の入った椀を手にする郭嘉に向かって言う。
自身は言いつつ、牀榻から少し離れたところにある桌子で薬湯の準備をしていた。

向ける背を見つめながら、郭嘉は椀に注がれた粥を一口口に運ぶと、その背に向けて口を開く。


「まさかが見舞いに来てくれるとはな。おまけに夕餉まで作ってくれるとは」

「夕餉を作るつもりなど元々無かったわ」


変わらず背を向けたまま戯が言う。
陶器の音が部屋に響いていた。

「それじゃ、なんでまた」
また一口粥を口に運ぶ。

「あんたが余りにも呆けた事を抜かすからだろ。あのまま私が帰ってたいら、そのまま妓楼に行くって事ぐらい目に見えてることだ。妓楼の女の子達にだって迷惑だよ」

「・・・・・・そうか、実は妬いてたな?」
「 だ れ が 」



即答すると同時に後ろを振り向く。
丁度、薬湯の準備も出来た為ひとまず郭嘉が食べ終わるまで待つことにした戯は、近くにあった椅子を牀榻の近くまで持っていくとどっかりと腰を下ろした。
ちらりと見えた窓外の空は未だ幾分か明るい。寒蝉(ひぐらし)がしきりに鳴いている。
戸に嵌められた格子から僅かに流れてきた風は秋を感じさせる涼しい風だった。

「それより、一体なんでこの時分に風邪なんか引いたんだ?噂どおり執務のし過ぎって事じゃないだろ?」

「噂?なんだそれ」



粥を口に運ぶ手を止めて郭嘉が戯に顔を向けた。
が先を続ける。

「女官たちが話していた噂さ。今日昼間にたまたま耳に挟んでね。それがなきゃ今ここにはいないわけだが」



それに目を丸くする郭嘉。

「ほう、ってことはその噂とやらに感謝しないとな」
「なぜ」

「だってそうだろ、噂を耳にしなければここにいないって言うなら、今ここでこうしての手料理にありつくこともなかったわけなんだからな」


笑顔で言う郭嘉に戯は呆れたように溜息をついた。



「…まったく奉孝殿は呆けたことばかりおっしゃる」

「馬鹿野郎、お前本気で言ってんだぞ、俺は」
「はいはい」


は相手にしていないといった風に軽く受け流しながら肩をすくめる。
郭嘉は真面目に取り合わない戯の反応に大きく息を吐いた。






「それで?自分で風邪を引くまでに至った原因に心当たりはないのか?」
の質問に再び動かし始めた手を今度は止めずに郭嘉が答える。

「ああ、それなら多分、あいつらと汗流したからだろうな」
「汗?あいつらと?何だ、奉孝。お前誰かと遠乗りにでも出かけたのか?」



異なこともあるものだと、戯が言うのに対し郭嘉はいや、と切り出す。

「遠乗りじゃない」

「遠乗りじゃない…?だったら‥」



”何だって言うんだ”そう続けようとした戯の顔の前で開かれた郭嘉の掌。
椀に残っていた最後の一口を詰めた口を動かす。
暫くして飲み込むと、何なのか理解していない顔のまま目をぱちくりする戯に向かって言った。





「これだよ、これ」







同時に戯の目の前の郭嘉の手は小指だけ立てられていた。
その意味を瞬時に理解して戯は恥ずかしさからではなく顔を赤くして立ち上がると、その勢いのまま平手で郭嘉の頭をひっぱたく。

「この馬鹿!本っっ当に信じられない!何考えてんの!?完全に自業自得じゃないか!ちょっとは信じてやろうと思った私が馬鹿だったわ、まさか長文殿の言ったとおりだなんて…!」


そう一気に言うと、郭嘉の手にある空の椀を奪い取り、踵を返して薬湯の準備がされた桌子に向かった。
「長文…?」



眉根を寄せてそう小さく呟いた郭嘉に、意外にもしっかりと聞いていた戯が漢薬の入った陶器に湯を注ぎながら先程よりは幾分冷静に答える。


「ああ。昼間に女官の噂を聞いたって言っただろ、その時に長文殿も一緒に聞いてたんだよ。それで”どうせ女遊びが過ぎて身体を冷やしたんだろう、見舞いに行くつもりなら馬鹿を見るから止めた方がいい”ってそう言われたんだが、もしかしたら違うかもしれないし、放っておくのもどうかなと思ってわざわざ足運んだっていうのに、お前ってやつは…」


湯飲みに淹れ終わった薬湯を手に、牀榻まで歩くと郭嘉に手渡す。
呆れ果てた表情のまま手渡す戯の顔を郭嘉は一瞥だけして受け取った。

寒蝉(ひぐらし)の鳴き声はいつの間にか納まり、部屋の中も、外ももうほとんど暗くなっていた。



「まったく、少しは長文殿を見習ってみたらどうだ?少なくともこの時分に風邪を引くなんてことはなくなると思うぞ」


見下しながら言う戯の前で郭嘉がぐいっと薬湯をあおる。
空になった湯飲みを渡せとばかり、戯が右手を差し出した。

郭嘉が湯飲みを手にした右手を伸ばすが、しかしさっとその方向を変えると牀榻の横にある棚にその湯飲みをことりと置く。
そして、その行動に一瞬隙の出来た戯の右腕を掴むと自分の方へ勢いよく引き寄せて牀榻に押し倒した。
当然、何が起きたのかと戯は驚くがはたと気づけば郭嘉が己の両腕を押さえて馬乗り宜しく上にいる。
まずいと思ったが、あとの祭りであった。


「言いたい事をよく、まあ言ってくれたが…その長文を見習えといった言葉、が俺の相手をしてくれるなら妓楼へ行くのを止めてもいいぞ」



自分を見下ろしてくる郭嘉に戯が抗議する。


「阿呆か、それは”見習う”とは言わないだろうが!」
「見習っているじゃないか、妓楼へ行くのを止めるってな。但し、が毎晩俺の相手をしてくれるなら、だが」
「だから、それが違うっていってんだよ!そもそもなんだ、その毎晩ってのは!そんなに体力持つわけないだろ、馬鹿か」
「なんなら試してみるか?もつかどうか」


「 た め さ な い 」





そこまで言うと、戯は腹に力を入れて起き上がろうとするが、させまいとすかさず郭嘉が上から体重をかけ、押さえる腕に力を込める。
体制が悪い為もあり、普段手合わせをする武将達に比べれば力のない郭嘉であったが、しかしまがりなりにも男であるその力が込められた腕を振りほどくことが出来ない。


「いいから早くどけってば。熱まである病人なんだから大人しく寝てろっての」


「俺は本気で言ってるんだ。がもし本当に俺のところに来てくれるなら他に女など要るものか」

そう言う郭嘉の瞳は真剣そのもので。









以前にも何度かこういうことがあったので、流石に3度4度を数えた時から特に2人だけになるときは警戒していたのだが、しかしその時は決まって酒を飲んでいたということもあり(2人きりになるときというのは常に郭嘉の、酒を飲みに行くぞ!という掛け声のもと一方的な誘いによるもので宮城に居る時などは大抵誰かしら近くに居る為そういう状況下でなければ2人きりになることなどなかった)、それは酔った勢いに違いないと思っていたので、酒の入らない時は特にそういうことはないだろうと高をくくっていた。
しかし、今回はどうしたことだろう。






(まずい…非常にまずいぞこれは…)





そう心の中で呟いて、戯は”警戒すべき状況”に”熱があるときも要注意”と的外れな注意書きを自分の頭の中の辞書に書き込んだ。
だが、そんなことなど露と知らない郭嘉である。
ぐっとその距離を縮めると、戯の左耳に顔を寄せた。

かかる息がこそばゆい。
ふと右手が自由になったかと思うと、郭嘉の左手が己の着物の合わせ目に伸ばされた。


「ちょ、待て!奉孝…!」




空いた手で郭嘉の肩を掴む。
しかし、そこで違和感に気づいて一度冷静になってみれば、




「――」
聞こえてきたのは寝息。


横目でちらりと見やれば安らかな寝顔。
大きく安堵の息を吐くと、戯は全身の力を抜いた。







   「…助かった」








ぽつりと呟く。



(どうやら、漢薬の中に睡眠を促す種類のものが入ってたみたいだな…)


そんなことを心の中で思いながら、郭嘉の身体を支えて起き上がる。
ひとまず自分の身体の右側に郭嘉を寝かせた。
暫くその寝顔を横で座りながら見ていたが、徐に立ち上がるとそのままにしておくのも良くないので布団の中に寝かせてやる。

(寝顔だけ見てれば大人しいものなんだけどな…)

それも当たり前か、とひとつ溜息を吐いた。
牀榻の横に置いた椅子に腰を下ろして窓外を見る。



満月ではないが月が夜空に浮かんでいた。
すっかり日が沈んだというのに灯が要らないほど明るいその理由を知って納得する。
このまま帰ろうかとも思ったが、こんなときに何故なのか下女達を帰らせたというこの屋敷には他に看病する人が居ないのだという事を思い出し、不本意ながら今日は泊まっていくかと諦めた。


そこまできて、自分の腹が空いているということに漸く気づく。
先ほどの一部始終を思い返し相当気が動転していたのかと理解して、なんとなくおかしな気持ちになりながら、ひとまず腹ごしらえでもしようかと席を立った。

今更赤くなる耳を押さえて回廊を早足で行く。
どこかで松虫が鳴いている。

前から抱いていたのか、それとも今はじめて抱いたのか、自分でもよく分からないが思い当たるこの感情のことは口が裂けたって誰にも言えない。




初秋を迎えて間もないある日ある夜の一つの話――――。




































 おわり




  ※タイトルは似非中国語です、騙されませぬ様に・・・!!←


相変わらずの稚拙な文章には突っ込まない方向で…言い訳に突入します。
今回の話は普段の彼らの生活を垣間見せつつ、
本連載とは外れたif的な話になってます。
(以下反転)

折角のフリーだしってことで片恋では終わらなさそうな(←なさそうって)話にしました。
郭嘉さんもこれで少しは報われるでしょう(報われないと思います
陳羣を出しましたが、あれは半分勢いで出しました(何が)
この話の陳羣サイドみたいなものを書きたいなーとか思ったので、そのうちupされるかもしれませんが余り期待はしない方がいいかも分かりませんマテ


本連載の方は未だに最終的な相手を誰にしようかとか考えていないので、ひとまず建前としては逆ハのノリで進みます(と思います…)
そんなわけで(どんなわけで)これにて失礼仕ります←
ここまでお付き合い頂き有難うございました。

2008.09.01 紅紫 





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