同類相従い、同声相応ず
戯家の愚人 ― 盛ル夏 晴レ晴レト ―
198年、春2月。
曹操、再び張繍征伐へ赴く。
同3月。
呂布、河内へ使者を遣わし馬を購入するも、劉備の配下に是を奪われる。
故に、中郎将・高順、北地太守・張遼を以て是を攻撃す。
曹操、張繍を穣に包囲。
暫く後、袁紹の下より離散した、兵卒の情報により是を中止し、帰還を決定。
しかし、そこを逆に張繍に攻められ、苦戦を強いる。
夏、5月。
曹操、荀ケに手紙を送る。
そして、同6月、現在の許昌――
陽炎の立つ真夏日。
蝉時雨に混ざる、その軽快な音は静かな室内に響く。
盤上から離れる白い指。
そこに一見不規則に広がるのは、白と黒の二色の枯棊。
盤を境に相対して座るのは、郭嘉と戯だ。
― 枯棊とは囲棊に使う木でできた碁石のことで、囲棊とはつまり、囲碁のことである ―
戸という戸を開け放っているとはいえ、北に位置するこの室内は薄暗い。
そして、その位置にあるわりには、さして涼しくもなかった。
たまに吹く風がなんとも気持ち良い。
だが、この二人にとってそれは大した問題ではないようだ。
傍らで、盤上をたまに覗く夏侯淵はどうにもしがたいこの暑さを、手に持つ団扇で凌いでいた。
「奉孝でもそんな表情をするのだな、眉間に皺がよってるぞ」
からかう様に言う夏侯淵に郭嘉は盤上に目を向けたまま一言言い放つ。
「うるさいぞ」
額に指を当てながら、今、戯の指が離れたそこを中心に盤上を遍く見回して次の一手、いや、その数手先を考える。
戯が夏侯淵に視線を向けた。
「ていうか、妙才殿はこんなところで油売ってていいのか?するべき事がまだ、おありなのでは?」
「残念だったな。今日の分は既に済ませてある」
ぱちん、と枯棊を打つ音が響いた。
すかさず戯は盤上に視線を戻して暫し考える。
―――夏侯淵とは、曹丕の一件以来、赫々云々で腹を割って話す仲になっていた。
夏侯淵の方は、未だどこか思うところがあるようだが、それ程深刻なことではないらしい、というのが戯の見方で、実際そのようだ。
今は公の場でない限り、戯も夏侯淵に対して、敬語は使わない。
最近では、郭嘉を交え三人で酒を酌み交わす、ということも多かった。
それはつまり、お互いどこか通じ合うところがあった、ということだ。
夏侯淵が口を開く。
「そう言うお前たちはどうなんだ?棊など打って・・・」
それは、戯烈が枯棊を打つ音と同時だった。
「「棊でも打たなきゃ、暑くてやってられん」」
おまけに、二人同時、夏侯淵の方を振り向いて真顔での答えだった。
暫く蝉の鳴き声だけが騒々しく響く。
そして、夏侯淵がぽつりと言った。
「・・・そうか」
と。
二人は再び盤上に視線を戻す。
夏侯淵は、何とも表現しがたい気持ちを抱きながら、密かに生唾を飲み込んだ。
団扇を仰ぎ続ける夏侯淵が再び口を開いたのは、それから暫く経ってのことだ。
「呂奉先が劉玄徳への攻撃を始めて三ヶ月か・・・」
ぎらぎらと照りつける太陽が庭を照らして、白く輝いている。
盤上は白と黒で殆ど埋め尽くされていたが、まだまだ二人の決着はつかないようだった。
誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた夏侯淵の言葉に、郭嘉が答えた。
「そうなるな。あやつも大変なことだ」
ぱちんと音が響いた。
戯が顎に右手を当てて盤上を見つめる。
「全くだ。彼も、苦労が絶えない」
そこで一度言葉を区切ると唇を湿す。
碁笥に、空いている方の手を伸ばして黒いその枯棊を一つ、つまみあげ続けた。
「斥候からの情報を聞く限り、それほど旗色は悪くないが、良くもない。・・・ま、どちらにしろ、この暑い中ご苦労なことだ」
悪い感じはしない、笑い混じりの声。
枯棊の行く末を見守っていた夏侯淵の耳に、ぱちんと弾く音が届いた。
と、夏侯淵が顔を上げ、笑いを含んで口を開く。
「まるで他人事のように言うな、お前らは」
「「他人事だからな」」
再び、息を合わせたかのような二人同時の答えに、夏侯淵は片眉を上げ難しい顔をしながら、こちらに顔を向けることも、そして盤上から視線を外すことすらもしない二人に、かける言葉も見つからず、大きな溜息をついた。
が、そこへ思いもかけず、耳に届いた郭嘉の言葉に視線を上げる。
「しかし、そうも言っていられない時が数ヶ月内に来る、恐らくな」
郭嘉の指が、白いそれから離れていく。
続けるように戯が口を開く。
「主公が次の段階へ進むためには、呂奉先は一つの障害にしかならない。だが・・・」
すかさず、戯が次の枯棊を手にして盤上に打つ、指が枯棊から離れる。
郭嘉が枯棊を手にする、戯の言葉の続きを代わりに続けた。
「主公は部類の人材好きだ、恐らくこの男も自分の下へ招きたいと思っているだろうな。例え」
「「手懐けることが無理だとわかっていても」」
郭嘉の声と、戯の声、そして、郭嘉の打った枯棊の音が一瞬、不思議と止んだ蝉時雨の合間に静かにだが、どこか力強く室内に響いた。
夏侯淵は、団扇を仰ぐ手を思わず止めて、その光景を見ていた。
戯が目を細めて盤上を見つめる。
蝉が再び鳴き出した。
碁笥の中で、枯棊が僅かに音を立てて擦れあう。
「どちらにしろ、これ以上、主公は呂奉先を放っては置かないだろう」
ぱちんという音と共に戯の声が静かに響いた。
郭嘉がその横に白を置く。
「何かのきっかけで機が得られれば、間違いなく主公は軍を動かす」
尚も言葉を続けながら、戯がそれをじっとみつめていた。
黒を手にする。
「それは恐らく・・・」
戯が言葉を飲み込んで、代わりに今、郭嘉が置いた白の下にそれを置いた。
郭嘉が自分の視線の高さまで白を挟んだ指を上げる。
そして、戯の言葉を代弁するように意中の名を口にした。
「劉玄徳がもたらす」
視線を落とすと、郭嘉はそれを黒の横にぱちんと音をたてて置いた。
そして、落とした視線を上げずに言葉を続けた。
「十中八九な」
沈黙が続いた。
蝉時雨が耳に鳴り響く。
三人の間を生暖かい風が流れて、頬を、髪を、肌の上をくすぐった。
暫くして、戯が枯棊をまさぐりながら今までの空気の色を変えるように、明るい口調で言った。
「そういえば、二人は劉氏と会ったこと、あるのか?」
郭嘉と夏候淵の顔を交互に見やりながら問いかける。
二人はちらりと互いの視線を交わすと、先に夏候淵が答えた。
「数回、見た程度だ」
「俺も、面と向かって会ったことはない」
「けど、奉孝も見たことはあるわけだ」
戯は、ふーん、と小さく呟きながら、黒いそれを指に挟んだまま、その手を顎に当てて郭嘉に向けていた視線を中空にやった。
二人は戯に視線を送る。
ふいに戯が視線を二人に戻すと、再び問うた。
「それで?どんなかんじの人物?」
口元に浮かべた笑みは好奇心からのものだ。
「やっぱり噂通り、耳は下げ袋みたいにでかくて、腕は地面につくほど長いわけ?」
どう頑張っても化け物か何かしか想像できないけど、と付け加えて笑い混じりに枯棊を思惑の場所へ置いた。
郭嘉が枯棊を手にしながら難しい顔で口を開く。
「いたって普通だ。確かに、一般の人間と比べれば目立つ福耳だし、腕も長く見えるがな」
「それでも結構、特徴的なのな。まあ、噂に尾ひれが付くっていうのは良くある話か」
「わかっていて聞いたんだろう?」
夏候淵が口を挟む。
戯は視線を夏候淵に向けた。
「当然」
夏侯淵は団扇を仰ぐ手を止めずに、じっとりとした視線を戯に送った。
「だったら最初から聞くな」
戯が肩をすくめる。
「私は見たこともないから・・・実際どんな人物かっていう興味はあったし」
「まったく、嫌味なヤツだな」
「どこが?」
吐き捨てるように言う夏侯淵に戯は首をかしげる。
「そういうところがだ」
「妙才殿ほどじゃないと思うけど・・・」
「俺が?」
不快そうな夏侯淵に戯。
「だってたまに”いぢわる”するじゃないですか」
にっこりと言う戯に夏侯淵は不味いものでも食べたような顔をして吐き捨てた。
「貴様が”だって”とか”いぢわる”とか言うな、気色悪い!」
「酷いなー、妙才殿ってば」
げぇっと、何かの真似をする夏侯淵。
「だまれ、うるさい、静かにしろ」
そう声を上げたのは郭嘉だった。
左手で頭を支えつつ、押さえつつしながら盤に穴が開くんじゃないかというぐらい注視している。
「あれ?まだ打ってなかったの?奉孝」
珍しい、と意外そうに戯が言う。
「うるさい」
と、釣れない郭嘉を戯は放っておくことにして、改めて夏侯淵の方を向いた。
「で、他には?劉氏について。印象とか」
団扇を仰ぎながら、盤上を見ていた夏侯淵がその視線を戯へ向けた。
「ん?そうだな。人付きは良さそうだ。大体やつを見かけるときは周りに必ず人が集まっている。妙な雰囲気を持ったやつだ」
一拍置いて、戯が呟いた。
「そこは噂通りか」
日が西に傾き始めているせいか、当初よりも大分室温が上がってきている。
何もしなくても噴出してくる汗が、三人それぞれの頬を、或いは首筋を流れて着衣に吸い込まれていく。
「主公とは違う才能を持った、侠の人、か」
そう呟いた、戯の表情から、夏侯淵は何を思っているのか、理解することは出来なかった。
その口元に浮かぶ、僅かな笑みが何を示すのか、わからなかった。
会って見たいという好奇心、それはあるかもしれない。
だが、他に、もっと何かを考えているように思えた。
劉備が敵になること、そんな事を考えているのかもしれないと思った。
今は味方という形をとっているが、いつそれが覆されるか判らない時代だ。
――おいそれと信用は出来ない。
・・・もしかしたら、何も考えてはいないかもしれない。
どちらにしろどんなに考えたところで、自分には戯の思っていることなど、良くも悪くもわからない、のだ。
親睦を深めるようになってから、月日は殆ど経っていないが、付き合い始めてから気づいた。
いつも、自分など考えが及ばないところに、こいつはいるのだと。
自分の従兄で主君でもある、曹操の様に。
そして、やっと気づいた。
こいつの愚かさは、作られていたんだ、と――。
そして、やはり思った。
どこか、いけ好かない、そんなヤツだと。
ぱちん、と音が響いた。
戯がそちらに視線を落とす。
盤上を一通り見て声を上げた。
「今日は変に暑いからかなあ、奉孝がこんなへぼやらかすなんて」
言ってにやりと笑って見せると、ある一点をその真上から指で指し示す。
郭嘉と夏侯淵が小さく、あ、と声を上げた時には、既に戯は次の枯棊を手にしていた。
「実戦で同じことしたら命取りってね」
明らかに、打たれたら負けてしまうだろう、という”そこ”へ戯が狙いを定める。
郭嘉が慌てふためき立ち上がった。
「ま、待て!!ちょっと落ち着け!」
「落ち着くのはそっち。それに、待ったはなし!そう最初に言ったのはお前だっただろ」
「潔く諦めろ、奉孝」
夏侯淵が、けらけらと笑いながら郭嘉に言う。
「そうだぞ、奉孝。さて、これで今日の酒代はいただき・・・」
指に挟んだ枯棊を高々と上げ、戯が今、まさにそれを打たんとしたその時だった。
「くぉら!何をやっとるか!!!」
三人が同時にびくりと肩を震わせて、声のした方、即ち開け放たれている部屋の扉の方を振り向く。
そこには、仁王立ちの程cの姿。
戯は腕を上げたまま、郭嘉は顔を向け、夏侯淵は後ろを振り向き団扇を仰ぐ手を止めて、しかし一様に硬直していた。
程cがずんずんと室内に入ってくる。
夏侯淵の背後で立ち止まって、白黒の並ぶ盤を目にするや否や、顔が真っ赤に高潮した。
「囲棊などしおって遊んどる場合か!この人手の足りんときに!!」
立っていた郭嘉の腕を掴んで踵を返した。
その手を振り払えない郭嘉が叫ぶ。
「待て!意味が分かるように説明しろ、じいさん!俺はいま・・・」
「だまらっしゃい!」
ぴしゃりと程cが言い放つ、そして続けた。
「新人どもが暑さで皆運ばれ、人手が足りんのじゃ!書簡整理もまともに出来んとは、全く情けない!」
そういえば、朝方、湿気を逃がして風通しを良くするためにも、たまった書簡を整理する、といっていた気がする。
だが、暑さで人手が壊滅するなどということが、まさか宮城内で起ころうなど、誰も予想もすまい。
一様に、心中呆れ果てたということは、言うまでもない。
「!」
「は、はい!」
行き成り、何の前触れもなく字を呼ばれ、戯は身を一層硬くした。
程cには、ともかくあらゆる意味で頭が上がらない。
仕事上での厳しさ然り、である。
だが、今ここにおいては、その勢いにただただ気圧されている、というのが正直なところだ。
「おぬしも手伝いに来い!」
「はい!」
「妙才殿!」
「は!」
夏侯淵が居直る。
可笑しなことだが、程cという、この一見文官に見える男には、武官以上の何かを感じさせるのだ。
実際、その肝は大きいように思えたし、その存在感も大いにあった。
夏侯淵がこの様な態度をとるなど、曹操以外では恐らく、程cぐらいではなかろうか。
「主公の留守中を委任されてるお主が遊び呆けていてなんとする!しっかりせんか!片付けるべきものは目に見えるものだけではないのだぞ!」
「は!」
程cはそれだけ言うと、郭嘉を伴って回廊に向かって行く。
郭嘉が何か言っているがお構いなしだ。
生暖かい風が、ゆるりと部屋の中を流れた。
戯と夏侯淵は、回廊に消えていく二人を見ながら、蝉時雨に混ざる程cの怒鳴り声を聞いた。
「全く、最近の若者はなっとらん!!」
しばらく無言の後、どちらともなく顔を見合わせて、夏侯淵が先に戸へ向かって一歩踏み出した。
戯は、手にしたままの黒い枯棊に視線を落とし、盤上へと移すと、それをそっと思惑のそこへ置いたのだった。
夏も、もう直ぐ終わりを向かえ、稲穂の輝く秋へと移ってゆく。
来るべき、一つの決戦は間近まで迫っていた。
まだ誰も、知る由はなかったが・・・――
つづく⇒
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