戯家の愚人 ― 蒼穹 ―


























この日はほとんど風の感じられない日だった。
寒くもなく、過しやすい暖かな陽気で少し暑さを感じるぐらいだ。


は市井を歩きながら改修中の城壁に向かっていた。
近づけば近づくほど、とんてんかんという音が次第に大きくなって耳に届く。
しばらくすると、大きなそれに沿うように組まれた足場が目に入る。

そこで作業をする人たちは専門の職人であったり、石材等を運ぶ者たちの中には罪を犯した故の罰で従事していたりと様々だ。
だが、そんな彼らが暴動などを起こすこともなく、その為に見張りや監督についている兵たちが忙しなく動いている様子もない。

周囲には幾つかの小屋―といっても屋根とそれを支える柱が立つだけの簡単なものである―が立ち並んで、それは簡単な救護場であったり休憩の場であったりした。
数人の女達の姿も確認できるが、どうやら差し入れか何かを持ち寄っているようである。


はそんな光景をちらりとみやってから、作業場から少し離れたところ、邪魔にならない程度の場所で歩を止めて改修の行われているそれを見上げた。
一つ一つの作業は小さいものであるのに、それが集まるとこうにもなるのかと感心させられる。
その仕事の内容が気になって、好奇心のまま一歩踏み出そうとした時だった。



のアニキじゃないですか!」


と、どこからともなくおかしなお呼びが掛かったことに、戯は訝しげながら辺りを見回した。
すると、左手方向へ少し離れた足場の自分の身長よりも少し上の方から、人が一人身軽にすとんと降りてきた。
そして戯に駆け寄って笑みを向ける。
その顔に思い当たる節があって、即座にそれを思い出し戯は驚きながらも口を開きさらりと言った。



「ああ、お前はいつぞやの賊じゃないか。刑罰は改修工事への従事だけなのか?」


その言葉に男は頭を掻いた。
そう、この男というのは数日前、曹丕の後を追った折遭遇した賊の一人だ。
ひょろりとした身体が特徴的である。



「へへ、まあ。元々あっしらは、こういう土木の事が専門でしてね。将軍がお話しを聞いてくだすったのと、ここへ連行させられた時の足を見込まれて、改修従事以外に将軍の下で兵卒として務めることでよしとしてくだすったんですよ。本当はもっと重い刑罰だったところを・・・ありがてえことで」


そこまで聞いて、確かにそういえばあの日、夏候淵が許昌へ戻ってくるのに要した時間は捕縛者を連れていたにしては相当に早いものだったと思う。
それについて来たとなると、かなりの脚力といえるだろう。



「そうか、それは良かったな。夏候将軍も優しいところがある」

「へい、だからあっしらは将軍にどこまででもついて行くと決めたんでさ。勿論、アニキにもついて行きますぜ!ここに来てから色々話を耳にしましたが、アニキって凄いんですね!あっしら皆でそう話をしてるんですよ」


目を輝かせて言うこの男に戯は米神に手を当てた。

「・・・ええと、あんた()は?」

そう言うと男は慌てて、直後にぴしっと背筋を伸ばしその場に直立して言った。

「失礼しやした!あっしは陽徳っていいまさあ!」

は米神に手を置いたまま顔を上げずに口を開く。


「・・・わかった、じゃあ陽徳」

「へい!なんですかい。のアニキ!」


そこで溜息をついた。

「・・・・・・何を聞いたのか知らないが、そのアニキっていうのを止めてくれないか・・・?」

そう告げるが、色よい返事など返ってくる様子もなく。

「アニキはアニキです!それ以外はありえないですぜ!なあ、野郎ども!」

そう言って陽徳が振り向くと、足場の上で作業をしていた何人かがそれに応えて何やら掛け声をあげている。
は益々頭が痛くなって、大きく溜息をつくと同時に肩を落とした。
そんな所へ拍車をかけるように後方から黄色い声。



「あ、様よ!」

「本当!様!」

様〜!」



が恐る恐るといった風に後ろを振り向くと、視界に入る数名の娘達。
周囲の男達が呆れるのも構わず、ぶんぶんと手を振っている。

は僅かに顔を引きつらせて、それでもとりあえずと、ひらひらと手を振り返す。
娘達の声が益々黄色くなるのは言うまでも無い。
ただ、乾いた声をあげるしかなかった。



「アニキは女達にも人気なんですね!さっすがのアニキ!」


何故か誇らしげな陽徳を見て戯は再び盛大な溜息をついた。
一体何を聞いてこうなったのか、と。

「(ていうか、普段周りの奴らはどんな話をしてるんだ・・・男と認識されているのは据置いたとしても・・・)」


若干の怒りを覚えながら項垂れた。




「そういえば」

陽徳が声の調子を変えて切り出す。
が顔を上げると続けた。

「将軍がアニキのことを心配してましたぜ」


そんな意外な言葉に一瞬ぽかんとする戯
意味が分からないという顔をする戯に構わず、陽徳は続ける。


「”感情任せにあいつの顔を殴っちまったからな、もう少し考えるべきだったかもしれん”ってなかんじで」


その声真似があまりに似ていたので笑いがこみ上げてきたが、そこはぐっと堪えた。

「いや、ないない。ありえない」

そう全力で否定する戯に陽徳は唇を尖らせる。


「なんで、そんなことが言えるんですかい?」

「いや、だって、なんでも何も・・・」




言いながら戯は数日前、事件当日の夜の事を思い出す。





ひと段落つき、落ち着いたところで荀ケ、郭嘉、そして夏候淵と夕餉を共にした折に、件の人に殴られて腫れた頬についての一部始終が話題にあがったときのことだ。

話を聞いて、非難する荀ケ、郭嘉を尻目に、夏候淵はけろりとして、


「それは子桓様に怪我を負わせた罰なのだから、謝罪するつもりなど毛頭ない」


と言い放ち、そして”は女なのだぞ”という郭嘉の言葉には、



「女として扱ってもらいたいなら、もっと女らしくしろ。だが、俺から言わせて見れば、軍事や政の場から離れぬ限り、お前を女としてみるつもりは全くない」

とまで言ったのだ。
そこからして、まず心配するなどありえる筈がないと、少なくとも、戯はそう思っている。

因みに、それ以外の”罰”は玉についての話を不可抗力ながら、夏候淵が盗み聞きしてしまっていたので、それと合わせて相殺となった。


―閑話休題―






そこまで思い出して、戯は手を振った。


「どう考えても、そんなことはない。なんて言ったって、あの夏候将軍だ・・・・・・ないね」

「でも、そんなこといったって、あっしは目の前で見聞きしたんですぜ!将軍がのアニキの・・「俺が、なんだって?」



両手にグーを作って力説する陽徳とそれを呆れながら聞く戯の真横から突如として現れたのは件の人、夏候淵。
なぜか不機嫌そうな顔をしている。
理由は明らかであるが。


「しょ、将軍!」

「陽徳、無駄口を叩いている暇があったら手を動かせ。それとも、初めての戦は前線が望みか?」

「へ、へい!持ち場に戻りやす!」


言って足場へと向かっていく陽徳。
どうも、前線という言葉よりも、夏候淵自身に恐れをなした様に見えるが。
それを目で追っている夏候淵に戯は軽口を叩いた。


「噂をすればなんとやら、ですね。政務はもういいんですか?」



夏候淵が振り向く。

「見回りついでに、休憩だ。お前はどうなのだ」

「今日は基本休日ですから」



そう言ったきり、暫くお互い無言が続く。


どこかで指示をする大きな声や、槌やら何やらの打ちつける音が響く。
徐に戯が口を開いた。



「彼ら、いい仕事しますね」


陽徳が戻っていった方向を見て言う。

「ああ、まだまだ暫くはこういう仕事が詰まっているからな、有用ではある」



どうやら同じ方向を見ていたようで視線を変えずに夏候淵が答えた。


「そうですね・・・次に同じ過ちを犯さなければ、その罪も少しは償えましょう。この貧困した世にもそれなりの罪がある」

「それはお前自身のことも言っているのか?」


思わぬ言葉に戯は目を見開いて、そして静かに閉じた。

「これは手厳しいお言葉。それはまた別の話です」

「・・・ふん、まあ同じ過ちなど、この俺がさせん。もし万が一、そんなことが起きれば、処罰せずに機会を与えてしまったこの俺自身の手で断罪する」


それほど大きな声ではないが、それは周りの雑音をすりぬけて、強く戯の耳に届いた。
僅かな緊張が流れる。

は自嘲気味に答えた。



「ええ、そうですね」

「・・・信じてはいる」

「はい」




それが一体、何を対象にした言葉であるのか、どうとでも捉えられるそれをお互い明確にすることはなかったが、意味は通じ合っていた。

再び無言の時が流れたが、そういえば、と今度はそれを夏候淵が破る。
声音からは先程までの緊迫した空気は感じられない。



「あいつらから聞いたのだが、弓が巧みらしいな、お前」


少し、楽しそうに聞こえるのは気のせいではないかもしれない。
は、何となく嫌な空気を感じつつ受け答える。


「あはは、嫌ですね。何ですか、それは。巧みでもなんでもないですよ」

だが、夏候淵は引かない。

「いや、速射などはそうそうできるものでもない。丁度休みだというし、今から俺と弓の勝負でもしようじゃないか」


そんな展開に戯が良しと言うわけもなく。



「え、いや、そんな無理ですから!将軍に弓で敵う筈ないじゃありませんか!」

「やってみなければわからないだろう」

「本っ当に無理です・・・!弓は一番苦手な分野なんですよ!」


そう慌てふためいて言うと、夏候淵ははたと戯に向き直って顎に手を当てた。
これで、諦めたかと、戯が表情を緩めたのも束の間、夏候淵はその口元に笑みを乗せて言った。


「ならば、俺が指南しよう。先程まで、机に向かってばかりいて肩が凝っていたところだ。ほぐすには丁度いい」



と言うが早いか、行き成り戯の手というより、腕を掴んで鍛錬場に向けて歩き始めた。
ここで戯が大人しくしているわけもない。

「ちょ、しょ、将軍、待ってください!私は覚えが悪いですから逆に疲れてしまいますよ!ほら、えっと、犬に論語です!」

「それは用法を間違っていないか?・・・まあ、安心しろ、それならそれなりに教え甲斐がある」

思いのほか冷静に突っ込まれて逆に焦る。
まして、何故かやる気になる始末である。




「将軍!待ってくださいってば!」


そう戯が叫ぶと、夏候淵の足がぴたりと止まった。
僅かな期待を胸に、顔を上げるとくるりと振り向く夏候淵。
そして、気付くとその小脇に抱えられている自分。


「な、なにして・・・!」

全てを言う前に次の動作に驚いて口を噤んだ。
閉じた目を開けると、馬に乗っかっている。
直後、夏候淵が自分の右側、つまり正位置に跨ぐ。
自分の腹でじかに馬の体温を感じながら顔を夏候淵の方へ向けた。



「将軍!」


やっと出した言葉はただそれだけ。
視線の先の夏候淵は、普段らしからぬ楽しそうな笑みを浮かべて見下ろしていた。


、その将軍というはやめろ、お前に言われると背中がむずむずする。字でいい」

「な、将ぐっ!」



抗議しようと口をあけた直後、身体に付加がかかる。
夏候淵が馬を走らせた為だ。
衝撃が腹に伝わって、今までにない体験である。


「口をあけていると舌を咬むぞ」

「それは、将軍がっ」


「妙才」



一切、戯の方へ視線を落とさずに言う。
それがなんとも腹立たしくて。


「妙才殿!」


そう強く呼ばわると、やっと夏候淵が視線を戯に落とした。
だが、それは戯の呼びかけに答えたわけではないようで、

「速度をあげるから振り落とされるなよ」


直後、視界を横切る景色が変わる。
正確には、流れていく景色の速さが。

大通りではないとはいえ、この速度はありえないと、戯は心に思いつつ、とりあえず叫んだ。





「人の話を聞けぇっ!」







それは空しく風に流されて消えてゆくだけだったが。

蒼い蒼い空の下、暖かな春の陽射しが降り注ぐ日に。



















つづく⇒




 いい訳とか↓(拍手下さる方有難う御座います・・・!



なんでしょうね、夏侯淵と距離を縮めてみようっていう試みです←
なんか、夏侯淵と夏侯惇が自分の中で被る・・・
全然性格違うと思うんだけどね。
どうしたもんかね・・・。
てわけで、次の更新が早い時期にできるように尽力します。
早く張遼を・・・!←

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2010.03