事は密を以て成り、語は泄を以て敗る
戯家の愚人 ― 春麗ニシテ亦嵐也・後弐 ―
戯の鋭い眼光に曹丕は怖気付いた。
直ぐにでもこの場から立ち去りたい気持ちになって、地に腰をつけたまま身を引いた。
がしかし、直ぐに右手に何かが当たってふいに視線をそちらへ落とす。
そこにあったのは、あの珠飾りだった。
いつのまにか落としていたようだ。
はっとして、曹丕はそれを拾い上げると胸の前でぎゅっとそれを抱き込むように両の手で固く握り締めた。
それ以降、震えたままただ雨に打たれて動こうとしない曹丕へ戯は視線を注ぐ。
そして口を開いた。
「よく、考えてみてください。子脩殿は本当に、子桓様にこのようなことをしてもらいたいと、思っているのでしょうか?よく・・・考えてみてください」
その声音は、厳しく激しいものではなくて、優しく諭すようなしかし、どこか哀愁の漂うものだった。
曹丕は顔を上げず震えの止まらない身体を一層固くしてぎゅっと目を瞑っていたが、その言葉が耳を通り過ぎた瞬間、脳裏に一つの記憶が甦る。
それは、戯が仕官して間もない頃、曹丕が曹昂に剣の稽古をつけてもらっていた時のことだ。
――今のように、兄上に身体ごと弾き飛ばされて俺は地面に尻を強く打ちつけた。
兄上が手を差し伸べて、その大きな手を握りながら身体を起こす。
そして、兄上に剣を握る時の心構えを説かれたのだ。
今、が話したことと全く同じ内容のことを。
その時、俺は聞いたんだ。
「感情で握らないって・・・じゃあ、怒っている時は?例えば仇討ちとか。そういう時こそ、人は剣を握るものでしょ?」
兄上は笑いながら俺の頭に手を置いた。
「我ながら、賢い弟をもったものだ。流石、俺の弟!」
「茶化すな!」
兄上はいつも俺の前でだけ、自分の事を俺と呼んでいた。
父上や母上や他の兄弟の前でも絶対にそう呼ばなかった。
その時だけ、俺にとって兄上は俺だけの兄上だった。
それがすごく嬉しかった。
兄上は、俺の頭から手を離しながら言った。
「そういう時こそ、我慢。一度冷静になる、それが一番難しいことだが、出来ないことじゃない。・・・それにね、俺は仇討ちよりも、もっと他にすることがあると思っている。そりゃ、肉親が殺されれば憎い、けど・・・」
「けど?」
「けど、一番はやっぱり、死んだそいつがやりたかったこと、やれなかったことを変わりにやってやることだと俺は思う。それは人それぞれあるだろう。例えば、死ぬ間際に会えたら、もしかしたら”仇をとってくれ”そういわれるかもしれない。それだったらそれでいい、けどその後も大事だと俺は、そう思う」
「・・・私も、そう思う」
そう兄上に言ったら、兄上はにっこり笑ったんだ。
俺もつられて、笑い返した。
それで、続けた。
「じゃあさ!兄上は何をしたいの?」
「お前、勝手に人を殺すなよ」
「いいじゃん!だって知りたいし!」
そういうと、兄上は空を見上げながら考えて、そして視線を戻した。
「そうだな、世の中が平和になるように父上の手助けをすること、かな。皆が心穏やかに暮らせるように」
「他には?」
「他?・・・うーん、」
「子脩殿!子桓様!お茶を入れました、どうですか?一服」
丁度その時、ちょっと離れた回廊からが呼びかけた。
ふいに、俺も兄上もそちらを振り向いたんだ。
その時に、ちらりと見えた兄上の表情。
あれを見て、俺は、兄上が本当にしたいことが何なのか気付いた。
俺もそう思っていたから、”ああ、一緒なんだ”、って――。
雨は止む気配が未だになくて、戯の睫毛を前髪から滴る雫が何度も何度も掠める。
ふいに、曹丕の身体の震えが先程と変わったことに気付いた。
「子桓様?」
戯が声をかけると、嗚咽が耳に入った。
曹丕はしゃくり上げて泣いていた。
戯は曹丕の正面近くにしゃがむと、そっとその頭を撫で下ろした。
そして、静かにその胸に抱き寄せる。
「正直を申せば、やはり私は子桓様の全てを理解することはできません。ただ、その苦しみも悔しさも悲しみも、そして子脩殿への想いは子桓様と同じものをこのも少なからず共有していると思っております」
戯はそこで一呼吸区切ると、落としていた視線を遠くにやった。
曹丕は戯の胸の中でただ丸くなって、しゃくりあげていた。
「私は子桓様に大変な無礼を働きました。しかし、それを許してくれなどとは言いません。今日教えた事を、子桓様が見るべきものを、自己と言うものを忘れないでいて下さるのであれば、は子桓様に許してもらえなくても良いのです。ですから、どうか今日の言葉を忘れないで下さい。見るべきもの、するべきこと、子脩殿の言葉を忘れないで下さい。これは私から子桓様へのお願いで御座います」
いつのまにか二人を打つ雨は止んで、空を覆っていた雲は綺麗さっぱりなくなっていた。
戯は曹丕から離れながら立ち上がる。
「さて、雨も止んだようですしそろそろ許へ帰りましょう。皆も心配しているでしょうし、日が暮れ始めれば閉門に間にあわぬかもしれません」
締め出されてはかないませんからね、と付け加えて水を含んだ衣をぎゅっと絞った。
地面に染み込んでゆくそれを見届けて、曹丕は顔を上げる。
「、俺は・・・」
しかし、その時、その言葉を遮るように太い男の声が曹丕の字を呼ぶ。
腰を落としたままの曹丕に戯が視線をよこして言う。
「お迎えのようです、子桓様」
遠くもなく近くも無いところに馬に跨る人影が確認できた。
だんだんと大きくなるそれは、やはりその声からも察したとおり、夏侯淵だ。
二人から僅かに離れたところで馬を止めひらりと地面に着地する。
戯は数歩前に出て両の手を合わせると軽く会釈をするが、夏侯淵はそれに構うことなく曹丕に早足で歩み寄り片足をついて礼をとった。
「ご無事で何よりです、子桓様」
「・・・心配を、かけたな・・・妙才」
立ち上がりつつ、遠慮がちに曹丕が答える。
浴びた雨水は思いの外多かったようで(他にも要因はいくつかあろうが)いつもより身体が重く感じられた。
ぽたぽたと滴る水が足元の草地に吸い込まれてゆく。
「まさか、あの雨の中をずっとここで?」
夏侯淵が訝しげに問う。
曹丕は短く”是”と答えた。
顔を流れる水が鬱陶しくて手で払う。
ふいに夏侯淵がその手をとる。
「どうしたのですか?この傷は・・・」
そこで初めて、掌に擦り傷があることに気付いた。
今更ながら、じくじくとした痛みが伝わってくる。
「それに、何故こんなに泥まみれに?」
「それは・・・「それは、私が」
夏侯淵の問いに答えようとした曹丕の言葉を遮って戯が口を開く。
夏侯淵が振り向いて、鋭い視線を送った。
「それはお前自身がこの傷を負わせたと、そうとっていいのか?」
「相違ありません」
それを聞くと、夏侯淵はすっと立ち上がって戯の方へとゆっくりと進む。
「ま、まて!妙才!これは俺が・・・!」
はっとして曹丕がその背中に叫ぶ。
だが、それに構うことなく夏侯淵は歩を進めると、戯の数歩前でぴたりと止まった。
「」
「はい」
そう答えて、一拍おいた直後だった。
夏侯淵の右拳が戯の左頬を殴りつけたのは。
鈍い音が辺りに響いて、次にはどさりと戯の身体が草地に放られる。
両手をついて上体を起こしながら振り返るとそこにあったのは曹丕の背中だった。
「妙才!は悪くない、これは全て俺が悪いのだ!だから・・・「例えそうであったとしても」
必死に訴える曹丕の言葉を夏侯淵が遮る。
そして続けた。
「例えそうであったとしても、主公のご子息である貴方様をお守り申し上げるのが、我々主公にお仕えする臣の暗黙の務めでございます。故に、そこにどんな理由があるにせよお守りするどころか、傷つけるなどということがあってはならないのです」
「俺は、父上の息子だが、俺は俺だ!俺と父上は違う!それに、いつまでも皆に守られ続けられるほど俺は子供じゃない!」
「そういうことを言っているのではありません」
「だけど・・・!」
必死に訴える曹丕だったが、後ろから腕をそっと掴まれて言葉を区切りそちらを振り向く。
戯が頬を腫らしながらこちらを真っ直ぐ見上げていた。
そして一度、軽く首を横に振る。
「将軍の言葉もまた一つの理なのです、子桓様」
「・・・」
何故なのか、と困惑した表情で見下ろしてくる曹丕に、戯は眉尻を下げて口を開く。
「何れ、子桓様にもお分かり頂けます」
「・・・・・・」
諭すように言われて曹丕は口を噤んだ。
戯は夏侯淵に視線を移す。
「夏侯将軍、この責は後でいかようにもお受けいたします。ですが、今は一刻も早く、許へ子桓様とともに戻りたいのです。ですからここはどうか、見逃してはくれませぬか?」
戯の真っ直ぐな瞳を暫く夏侯淵は見下ろしていたが、やがて一つ溜息をついた。
「見逃してくれと願い出ているのか、見逃せと一方的に言っているのか、その瞳を見ているとどちらなのかもわからん。全く気に食わないな」
そう言い放っても、尚揺らがない瞳を見て夏侯淵は続けた。
「お前の馬と子桓様の御馬を途中で保護した。今、部下達が準備をしているだろうが、子桓様の御馬はお前が準備しろ」
それはつまり、この場は見逃すということに相違なかった。
「ただし、先に言った己の言葉を忘れるな。罰は受けてもらうぞ」
「はい」
戯は感謝の意を込めてただ短くそれだけ答えた。
立ち上がり、一礼して踵を返す。
そんな戯の背中を見、そして同じくその方向を見ている曹丕に視線を移した時、その手に持つ珠飾りを目にして、夏侯淵は目を細めた。
そして、戯の字を呼ばわった。
それに戯は足を止めて振り返る。
視線が合うと同時に何かがこちらへ放られた。
緩い放物線を描いてそれは戯の手の中へ。
「忘れる前に返しておく」
視線を落とすとそれは、賊に奪われた筈のあの彫刻だった。
「な、んで・・・」
これを、と続ける間も無く、夏侯淵が続ける。
「先刻捕縛した賊の持ち物を改めていたら、そのうちの一人がそれを持っていたので預かっていたのだ。お前のものだろう?」
戯は驚いて目を丸くした。
それは第一に、あの賊を夏侯淵が捕縛していたということ。
第二に、これが自分の持ち物である事を夏侯淵が知っていたことだ。
それは、曹操と荀ケしか知らない筈であるのに。
そんな戯の反応に気付いて夏侯淵はバツが悪そうに口を開いた。
「不可抗力だ、たまたまあの場に居合わせてしまっただけで・・・ってとりあえず、それはまた後でだ!」
そうはぐらかすと、夏侯淵は戯に真っ直ぐ向き直ってその瞳を見る。
「大事なものなのだろう?ならばもう少し大切に扱え。でなければ、誰に何を言われようと言い訳できぬぞ」
それは、暗に今回の件を指しているようで。
戯はぎゅっとその手のものを握り返す。
そして口を開いた。
「その通りですね、以後気をつけます」
玉を懐に戻して一歩下がる。
「礼を述べます、夏侯将軍。このこともですが、賊のこともです」
懐に手を当てつつも、真っ直ぐ夏侯淵を見上げて笑みを浮かべる。
夏侯淵は意味が分からないと片眉を上げて見せた。
そんな夏侯淵に戯は言う。
「これで今回の件、ひとまず一件落着です。文若殿にはいい手土産が出来ました」
そう、告げると今一度礼をして踵を返す。
夏侯淵はそこで意味を理解すると頭を掻きながら呟いた。
「まったく、そこを気をつけろと言っているのだ」
傍らにいた曹丕は戯が向かった丘の上を見ていた。
夏侯淵が自分たちもそちらへ向かおうと促す。
先を行く夏候淵の背中に曹丕は後を追いながら問いかけた。
「妙才、あれはにとってのなんなのだ?」
それに歩を止めて夏侯淵は振り向いた。
話してくれと、真摯に見上げてくるその視線に多少困ったような表情を浮かべながら口を開いた。
「詳しいことはご自分で聞いてくださいよ。あれは、子桓様で言うところの・・・そうですね、その手に持つ玉の様なものですよ」
遠まわしではあったが、しかし一番分かりやすいその例えに曹丕は自分の手の内にある玉を凝視した。
これと同じ意味、つまり・・・。
そこまで考えて、曹丕は唇をかみ締めた。
「妙才!俺は、にとんでもないことを・・・!どうしたらいい!?」
自責の念に駆られて、ただすがるように夏侯淵の服を掴んだ。
目頭が熱くなって、服を掴む手に力を込める。
夏侯淵はその手を解くように身を翻すと背を向けたまま言い放った。
「そのぐらい自分で考えたらどうだ?もう子供ではないのだろう?」
その言葉に、曹丕はただうな垂れた。
どうすればいいのだろうと、頭の中が真っ白だった。
暫く沈黙が続いたが、夏侯淵は息を大きく吐き出すと再び口を開く。
「に言わなきゃいけない言葉があるのじゃないのか?後のことは自分で考えろ」
曹丕はそれを聞いて顔を上げると、一目散に丘を駆け上った。
そんな従甥の背中を見ながら夏侯淵は両手を腰に当てて、
「まったく、親父もそうだが、子桓も手のかかる子供だな」
そう呟いて頭を掻くと二人のあとを追っていった。
「子桓様たちは賊の討伐の為の偵察に出たと聞いておりましたが、誰もがそんなことは知らぬと・・・・・・これはどういうことなのかご説明頂けますかな?侍中殿」
詰め寄る二人の文官に荀ケはその顔に出ずとも、内心冷や汗をかいていた。
「(もう日も暮れ始めるというのに・・・・・・殿・・・子桓様・・・)」
尚も詰め寄る二人に荀ケは重い口を開く。
「それは」
「「それは?」」
「それは...」
「――それは、敵を騙すにはまず味方からと申しますでしょう?」
荀ケの言葉を割って入ってきた声に三人が一斉に戸の方へと視線を向ける。
開かれたそこには戯とその一歩後ろに曹丕の姿。
何故か二人とも頭から足の先までずぶ濡れだったが、今それを突っ込むものは誰もいなかった。
文官の一人が突然のことに気圧されながらも口を開く。
「これは戯都尉殿、丁度良いところへ。今までどちらへ行っておられたのかということと、そのお言葉の意味をご説明願えますかな」
戯は敷居を跨ぐとそう質問する文官の正面に出た。
「いえ、大したことではございません。ただ、近頃この近辺で暴れているという賊の討伐に出たまでのこと。そして、先の話はその為の策を申したまでです」
そう言って微笑んでみせる戯に、文官はたじろぐ。
「な、ぞ、賊の討伐・・・わ、私はそこな侍中殿に、貴方は賊の”偵察”に赴いたと聞いたのですがね・・・それはどういうことですかな」
「――だから、敵を騙すにはまず味方からってさっきが言っていただろう、話を聞いていないやつだな」
突然、割って入ってきた声に文官が再び何か、と驚く。
戯もまた内心驚いてはいたが、しかし直ぐに今までどこぞをほっつき歩いていたにもかかわらず、この絶妙なる瞬間に現れる彼に呆れた。
「郭軍祭酒殿・・・」
文官が呟いた。
郭嘉は構わず続ける。
「と言っても、文若は気付いていたようだし、お前らもそのぐらいは察せられないと苦労するぞ」
腰に両手を当て、くつくつと笑う。
文官は奥歯をならして眉間に皺を寄せた。
戯が呆れながら口を開く。
「そんなことを言う為に来たんじゃないんだろ・・・用件は何ですか?奉孝殿」
「つれないな、本当に」
肩をすくめる郭嘉。
「妙才殿が賊を連れてお帰りだっていう、報告だ」
じとりと見てくる戯に面白くなさそうに息を吐いて告げた。
「ば、ばかな・・・そんな筈は・・・」
そう思わず呟いた文官の腕を、その傍らにいた別の文官が小突く。
はっとして口に手を当てたときには既に遅く・・・。
戯が、その顔を覗き込むように近づいて口を開いた。
「あれ、何ですか?その、まるで私達が賊討伐に赴いたのではないと最初から決め付けているようなその物言い。ええ、まあ尚書殿からは賊偵察と聞いていたわけですけど、これまでの話を聞いているとそれも最初から否定していたみたいですし。どこに向かったと思っていたんですか?」
「そ、それは・・・」
あからさまに浮ついて、言葉を詰まらせる文官に戯は言葉を続ける。
「そういえば、変な噂が一部で流れていたようなのですが、もしかしてご存知でしたか?」
「し、知らん!子桓様が主公の下へ参られた等という噂は!な、何も存じておらぬ」
傍らにいる文官の顔が真っ青になっていくのが分かる。
戯は今一歩踏み出て、未だ自分が何を口走ったのか気付いていない文官に首をかしげた。
「おや、おかしいですね。私は”噂”としか申しておりませんし、その噂は初耳なのですが・・・貴方はいろいろとご存知なのですね」
にっこりと笑顔を向けられて、文官の顔からは冷や汗がだらだらと流れる。
しかし、戯はそれには構わない。
「ああ、もしかして心の中の妄想が大きくなりすぎて、うっかり口から出てしまったのかな?ならば、仕方がないですね。今回は聞かなかったことにします」
口を出す隙もなくて、周囲もまた、その行く末を見守るだけだ。
ただ郭嘉だけは面白そうに笑みを浮かべていたが。
戯はまだ続ける。
「ですが、気をつけて下さい。ただの妄想とはいえ、あまり度が過ぎれば自分の首を絞めかねませんから。それと・・・」
そう区切ると、戯は文官の胸元を掴んでぐっと引き寄せ顔を近づけると周囲に聞き取れるか聞き取れないかの小さな声で言った。
「もし次があれば、その時はお気をつけを。落とさなくていいものを落としてしまうかもしれませんよ」
それは静かで、何の感情も感じとれない言葉。
離れ際向けられた冷ややかな視線から、かろうじて怒気が窺われる程度だ。
文官の胆は一気に冷え切って指一本すら動かすことが出来なかった。
傍らにいた文官もまた同じだ。
心なしか、部屋の空気も冷え切った様で。
しかし、変わらず郭嘉は口元を手で押さえて微笑を浮かべる。
荀ケは、多少、場の雰囲気に気圧されながらもしかし、涼しげな表情だった。
そんな二人の間を颯爽と歩いて戯は部屋の敷居を越えると、くるりと正面に向き直る。
そして、場の空気を壊すかのように爽やかに言い放った。
「それでは、子桓様が風邪を召されると大変ですので私はこれにてお暇させていただき、子桓様をお部屋までお連れ致します。尚書殿と軍祭酒殿には申し訳御座いませんが、後のことお願い申し上げます」
拱手して礼をする。
顔を上げると、正面の文官と目が合った。
文官は肩をびくりとさせるとあからさまに動揺し始めた。
傍らにいる文官は、堅い表情のまま微動だにしない。
戯はそんな二人に笑顔を向ける。
「お二方も、先のお言葉にお構いなく、それぞれのお勤めにお戻り下さい。私は気にしていませんから」
そう告げると、戯は後方にいた曹丕に声をかけて部屋を後にしていった。
暫くして、郭嘉が面倒臭そうに頭をかく。
「とまあ、様々のお言葉を頂いたんだが、どうする文若?」
「どうするも何も・・・二人には持ち場に戻ってもらって、私達は妙才殿からの報告を待つしかないのでは?」
そう荀ケが答えると、郭嘉は二人の文官を振り向く。
「だそうだ。お前ら、もう帰っていいぞ」
その言葉を聞くと、どちらともなく小走りに部屋を後にしていった。
郭嘉が肩をすくめて荀ケを見やると、荀ケもまた小首をかしげて郭嘉を見やった。
空は薄紫に染まっていた。
「、本当にすまない」
後ろからそう声がして、戯は足を止めた。
振り向くと、曹丕が立ち止まり俯いている。
回廊は徐々に暗くなり始めていた。
戯は曹丕の前にしゃがむと、その手をそっととる。
「子桓様、もう子桓様からのお言葉はこちらへ向かう道中で充分すぎるほど頂きました。それに、もうお気になさらなくてもいいと申し上げたではございませんか」
「確かに、そうだが・・・」
そう言ったきり、目を合わせようとしない曹丕に戯は小さく息を吐くと、すっと立ち上がる。
「全く、子桓様は私を困らせる天才ですね」
俯いたまま視線を泳がせる曹丕に戯は続ける。
「そんな子桓様に私からのお願いがあるのですが、聞いてもらえますか?」
その言葉に曹丕は顔を上げた。
「からの願い事なら何だって聞く、何でも言ってくれ!」
やっと自分の目を見てくれたことに、戯は目を細める。
口元に笑みを浮かべて言った。
「では今度、私を遠乗りに誘ってください。一度、子桓様と遠乗りに出かけたいと思っていたのです。お誘い、頂けますか?」
「ああ!そんなことでいいなら一度でも、何度だってを誘う!今すぐだって構わない!」
そう言って握りこぶしを作る曹丕に戯は眉尻を下げて再びしゃがむと曹丕を見上げた。
「まあ、落ち着いてください子桓様。今すぐは流石に無理ですから、主公がお帰りになられて一段落着いたあとにお誘いくださいませ。その後でしたら、子桓様のお時間が許すときで構いませんから」
「わかった、絶対を誘うから!」
「はい、絶対誘ってください、約束ですよ」
そう言って戯は小指を立てた。
曹丕も意味を理解してそこに自身の小指を絡める。
笑みを向ける戯に曹丕もまた笑顔を向けた。
「さて、そろそろお部屋へ戻りましょうか。空も暗くなり始めてきましたし」
言いながら、小指の力を弱める。
曹丕もまたそれに倣って、どちらともなく手を下ろした。
戯が立ち上がる。
曹丕はそれを目で追った。
「既に女官達に言って湯の用意をさせていますから、今日はよく身体を温めてお休み下さい。明日からまた忙しいですからね」
いつのまに手配したんだと、曹丕は内心驚いたが、頷きつつ素直に分かったとだけ告げた。
辺りが暗くなりつつあってはっきりとは見えなかったが、戯が笑みで返してくれているのはよく分かった。
戯の背中を追って回廊を歩く。
そのずっと先で蝋燭に灯された明かりが僅かに揺れていた。
歩を止めずに後ろを振り向くと、いつのまにかそこここで明かりが揺れている。
再び前を向くと、ぴんと背筋の伸ばされたそれが視界に入った。
自分を取り巻く他の男達に比べればずっと華奢であるが、やはり昼間感じたように頼もしくそして温かに感じられる背中。
自然と自分の肩から緊張がほぐれていくのが分かった。
と同時に、今度は絶対に自分が、と心に誓いを立てて、そしてまた亡き曹昂に誓ってそっと自分の胸に手を当てた。
風が吹く。
それは頬を優しく撫でていった。
つづく⇒
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