人、我を解せずとも
戯家の愚人 ― 春麗ニシテ亦嵐也・前 ―
固められた赤土の広場の向こうに厩が見えた。
その厩から一里(≒430m)ばかり離れたところに月毛の馬に跨る曹丕の姿。
その前で必死に行く手を塞いでいるのは一人の兵士と己をここへと呼び寄せた張本人、荀ケである。
戯を視界に入れた曹丕が顔を上げると、それに気づいて荀ケと兵士も後ろを振り向く。
と、その隙をついて、曹丕がするりと手綱さばきも巧みに阻む二人の間を抜け出した。
それにいち早く反応したのは戯だ。
その駆け出す月毛の馬の前へ躊躇なく走り出と両腕を大きく広げその行く手を阻む。
思いもよらない障害に曹丕は思わず手綱を引いて、戯の直ぐ目の前で月毛の足を止めた。
「子桓様、どちらへ行かれるおつもりですか?」
曹丕が口をあけるより早く、しかし口調穏やかに戯が問う。
だが、それに食って掛かる曹丕は穏やかとは程遠く、まるで春、一番に吹く風のように激しく激昂していた。
「知れたこと!父上のもとへ合流し、兄上の敵を討つのだ、道をあけろ!!!」
視界の端にこちらへ駆けてくる荀ケと兵士の姿があった。
「・・・いいえ、それならば尚更行かせる訳には参りません」
11の少年らしからぬ威厳を醸す曹丕に戯は動じる風もなく続ける。
「今回留守を預かるということは既に六日前に決まったことで御座います。早まった行動はどうか謹んで、自室へお戻り下さい。兵たちも動揺いたしま「早まった行動だと!?」
全てを言い終わる前に、曹丕が声をあげた。
その表情は怒りで溢れている。
声は離れた荀ケと兵士の耳にまで届いてその足を止めた。
戯は遮られた言葉を口を噤むことで飲み込む。
しかし、瞳は真っ直ぐ曹丕の双眸から外されることはない。
「早まってなどいない、この六日間考え続けて出した答えだ!」
月毛から身を乗り出して空を払い、
「そこをどけ!!!!」
「・・・いいえ、どきません」
戯はあくまでも冷静に、且つ声色穏やかに言葉をかけた。
「・・・子桓様、貴方様は主君から留守をと命を受けた臣下の一人なのですよ。その臣が君命を蔑ろにしていい筈がありません」
声も言葉も広げられた両の腕も全く動じない。
「それに、今の情勢の下、留守を無事に守り抜くということがどれ程大切「だまれ!」
再び言葉を遮られ、眉尻を下げる。
戯は広げた腕を下ろしながら腹の前で右手を上にして合わせた。
その最中も曹丕の言葉は続く。
「臣下であるからなんだというのだ!俺は臣下である前に、曹孟徳の息子だ!曹子脩の弟だ!臣下であることが兄上の仇討ちの邪魔をするというのなら、俺は臣下などにはならない!わかったらそこをどけ、!!」
一歩も引く様子はなく、諫めの言葉もその耳には留まらない。
しかし、諫めぬ訳にはいかないのだ。
諫め、そして説得し納得させなければあらゆる方面で取り返しのつかぬ事になる。
今、曹丕は感情で行動を起こしている。
それは誰の目にも明らかだった。
戯は一度目を伏せ、そしてゆっくりと瞼を上げると同時に、拱手して言った。
「・・・わかりました。それではまず、早馬を出しましょう。主公のお返事を待った上で先方と合流、とさせていただきます」
「それでは遅い!」
凄い剣幕で曹丕が言い放つ。
荀ケと兵士は、今自分たちの出番はないのだと、ただ事の行く末を見守っていた。
「いいえ、遅くはありません。今回の行軍は強行軍ではありませんから、早馬からの返事を待った上で、仮に子桓様が小隊を率いて追ったとしても、張繍軍と衝突するまでには充分間に合います。本隊とは無事に合流を果たせますよ」
「っ」
やんわりと微笑んで拱手を解く戯に、曹丕は返す言葉もなく眉間に皺を寄せるのみ。
戯は一歩進み出て再び口を開く。
「・・・さあ、とりあえず子桓様は自室にお戻り下さい。早馬はこちらで速やかに手配致します故、今はどうか一度、心を落ち着かせて・・・」
そこまで言った時である、曹丕が突然月毛の手綱を打って走り出そうとしたのだ。
「っ!」
月毛から数歩のところにいた戯は咄嗟に進み出てその手綱を右手で掴み、左腕を月毛の首にまわす。
筋を撫でてなだめながら曹丕を見上げた。
思わず数歩前に出る荀ケと兵士はそれを見てとりあえず胸を撫で下ろすが、予断を許せない状況に変わりは無い。
「子桓様!?何を・・・!」
曹丕は掴まれた手綱を強く握り締めながら戯を睨む。
「放せ!そんなもの、待っていられるか!」
「いいえ、放しません。下馬下さい、子桓様」
「黙れ!俺に指図するのか!?」
いよいよ戯はその眼光を僅かに鋭くして曹丕を見上げる。
だが曹丕も引かない。
手綱から戯の手を外そうとそれを強く己の方へと引っ張るがその位置からその手が動く気配すらなかった。
まるで石でできた像のように。
「放せ!・・・には俺の気持ちが分からないのだ!」
そう口走る曹丕の言葉に、戯は口を噤む。
だが、戯はすぐに笑みを作ると眉尻を下げ瞳の色を和らげて口を開く。
「確かに、私は子桓様の全てを理解することは出来ぬかもしれませんが、兄上をなくされた、そのお気持ちは私も理解できているものと「嘘だ!」
「子桓様・・・」
「に分かる訳がない!兄上をなくした気持ちが分かるだと・・・!?その兄を、自分の兄を蔑み侮辱していたのは自身だろう!それなのにどうして俺の気持ちが分かるというのだ!!」
遠くから呼ばれた字はその言葉に遮られて、戯の耳に残る言葉は何もかもをかき消すのに充分だった。
変わりに過去が蘇る。
己がしてきた事実。
戯志才の、知らぬ空想の表情が現れては消えた。
悲しみ、憎しみの篭ったその表情はただの空想で、事実ではないと分かっているのに、果たしてそれは本当に事実ではなかったと言い切れるのか、と戯の中をぐるぐると廻った。
遠くに聞こえるのは荀ケが己の、曹丕の字を呼ぶ声。
瞳は虚空を見つめて、目に見える実像は見えていても見えていないのと同じだった。
曹丕はその何も映し出していない瞳に、限りのない無という表情に一瞬息を止めた。
肺を押し潰されたような息苦しさ、心臓を鷲掴みにされたような痛みと苦しみに襲われていた。
何度目か荀ケに字を呼ばれ我に返ると、手綱へと視線を落とす。
まだ表情を変えぬ戯の手が手綱を握っていた。
それが何故か物凄く恐ろしいものに見えて、曹丕は固く目を瞑り顔を逸らすと、それを力の限り左手で払っていた。
「っはなせ!」
戯の手が離れる。
しかし、それは払われたのではなく、曹丕の手が勢いよく戯の顔を打ちつけ、その為に後ろへと飛ばされたからだった。
固い地面に戯が倒れる。
曹丕はただ驚いてその様を見ていた。
荀ケと兵士が戯のもとへ駆け寄る。
戯はゆっくりと片膝を立てながら上体を起こした。
同時に正気も取り戻していた。
荀ケが戯の横に膝をついて背に手を添えながらその顔を覗きこむ。
「殿!怪我はないですか!?」
「ええ…大事、ありません・・・――っ」
荀ケの言葉にそう答えるが、一瞬口内に痛みが走ったかと思うと、ぽたりと官服に何かが落ちた。
視線を落とすとそれは一滴の血。
口元を伝って流れているようだった。
「校尉殿!血が・・・!」
「口の中を切っただけだ、大したことじゃない」
口元を拭いながらうろたえる兵士にそう答える。
視線を上げれば曹丕と目が合う。
瞬間、曹丕は目を逸らすと目を瞑った。
そして、瞼を開けると同時に馬腹をを蹴って駆け出す。
「子桓様!」
戯が叫ぶが時既に遅し。
みるみる曹丕を乗せた月毛が小さくなっていく。
うろたえる兵士に、戯が地面に手をつけたまま身を乗り出して叫んだ。
「早く誰か・・・いや、馬を、馬を一頭ここに連れて来い、早く!どの馬でもいい!」
「は、はい!」
慌てて兵士が厩へと駆けていく。
ここからは馬小屋は見えるが多少距離があった。
しかし、運よく誰かがその馬を引いていたのか、兵士は驚くほど早く一頭の栗毛を引いて戻ってくる。
戯はよろよろと立ち上がると官服の裾を払った。
まだ耳に残る曹丕の言葉。
その背中に荀ケが声をかけた。
「殿・・・先程のことは気にせずに、あれは皆も承知していることで、その裏に「文若殿」
戯はその言葉を遮って荀ケの字を呼ぶ。
背を向けたままその後を続けた。
「良いのです。私が道理に適わぬ事をした、それは紛う事のない事実。この先どれだけの長い年月、私が道理の道を歩んだとしても、それは消えることがありません」
「殿・・・」
「白い絹に墨を落としたように、どれだけ水で濯ぎ、洗い流してもその染みが完全にはとれないように、例えそんな絹を見につけてくれる人が居たとしても、そんなものは嫌だという人が居るように、皆が目を瞑ってくれるわけではない。道理に背くということは、そういうことです。それは、文若殿が一番お分かりの筈」
荀ケはその背中をただ悲痛な表情で見つめる。
もう少し甘えたっていいじゃないか
――そう思った。
それは、儒という思想に己の心の全てが支配されているわけではないのだと改めて気づかされた瞬間でもあった。
完全にそのことを忘れていたわけじゃない。
だが、改めて、そうなのだと気づかされた。
「これは私の業。私がどう感じどう対処するかは私自身のとても重大で大切な問題なのです」
戯はくるりと振り向いて難しい顔をする荀ケを真っ直ぐに見る。
「だから、どうぞお構いなく。私は大丈夫です、文若殿」
それは一点の曇りもない笑みで凛とした輝き。
「大丈夫ですから」
もう一度放たれた言葉は、荀ケの眉間に刻まれた皺を一瞬にして和らげた。
それは、あたかも人が朋友の背を支えるように、まるで先程荀ケが戯の背に手を添えたように。
戯が、直ぐ傍までやってきた兵と栗毛に気づいて視線を移す。
荀ケもまたそんな戯の動きに気づいて後ろを振り返った。
すぐにその横を素通って、兵士が戯へ手綱を渡す。
「ありがとう」
「いえ。ですが、鞍は・・・」
そう言う様に、兵士の連れてきた栗毛には手綱だけが付けられたのみで、鐙はおろか鞍もついていない。
だが戯は、
「構わない」
それを聞いた兵士が上目遣いに戯を見た後、頭を垂れて数歩下がる。
戯が荀ケに向き直る。
手綱を手にしたまま拱手する戯に荀ケは衿を正してそれを見た。
「行って参ります、申し訳ありませんがどうか後を宜しく御願いいたします」
言外に含む意味は、曹操を良く思わぬものたちの動きのことだ。
恐らく、どんな小さな綻びでも利用するに違いない。
まして、今はその曹操が留守なのだから。
「閉門までには子桓様をお連れして戻りますゆえ」
「うん、そちらは任せたよ、殿」
目を細めて荀ケが答える。
戯は頭を下げてから栗毛に向かった。
目を瞑り空を仰ぐ。
曹丕を乗せた月毛は十中八九、障害物の殆どない内城の城壁沿いを駆けて正門に向かうだろう。
かかる時間は僅かな筈だ。
そこを抜ければ外城の正門までは広い広い一直線である。
そして、その先は―――・・・
なんとか、そこを抜けるまでにその背中を捉えておきたい。
目を開け視線を正面に戻すと息を吐き出す。
大きく息を吸い込んでぴたりと止めた。
右の手で栗毛の太腿を一度なでれば尻を落とす。
荀ケと兵士が僅かに目を見張る。
低くなった背に戯がひらりと跨って今度はその首筋を撫でると栗毛は立ち上がった。
もう一度軽く荀ケに会釈して、戯は栗毛を挟むその太腿にぎゅっと、一瞬だけ力を加えた。
途端、栗毛はニ、三歩歩き出すと直ぐに加速して城壁に沿うように駆ける。
荀ケはその背が小さくなっていくのを見ていた。
不意に、先程走らせた兵士と夏侯淵がその視界の端に入る。
血相を変えてやってくる二人の下へ、荀ケは傍らの兵士と共に駆け寄った。
夏侯淵に事の至大を放す間、空を雲が流れていく。
全てを告げて夏侯淵がその場を去った頃、空の七割を雲が覆っていた。
つづく⇒
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