子を知るは父に若くは莫し
戯家の愚人 ― 春麗ニシテ亦嵐也・序 ―
一九八年 ― 建安二年 ― 春 二月。
「何故だ!」
書桌を叩きつける音。
静かな部屋に響く怒声。
一同の視線がそこへ集まる。
睨みつける曹丕の瞳を真っ直ぐ見据え、曹操が組んだ両の手から顎を離さずに口を開いた。
「言った筈だ。此度は元譲を連れて行く、それ故、都の守備のため奉孝、文若らと共にそちをここに残すと。これも重要な任なのだぞ、子桓」
曹操は、兗州刺史に就いた頃から、己が出兵する際は常と言っていいほど夏侯惇にその根拠の守備を委任し、代わりとしていた。
しかし、今回は随従させるとのことから、曹丕はじめ、戯もまた許に残り守備に就くことになったのだ。
それはつい先刻、収集の号令がかかり呼び出された者全員がここに集まって間もなく告げられたことである。
参軍する主な者は、主軍である曹操は勿論の事、先で述べた夏侯惇の他、于禁
、楽進、李典、曹洪、曹操の親衛である許褚、軍師である荀攸などで、郭嘉、荀ケはじめ、程c、曹仁や夏侯淵といった面々はみな、許の守備、所謂居残り組みであった。
だがそれはまた、この、いつ誰が敵となり都に攻め入ってくるか分からない時世に信を置いて任せるという意味でも大変重要な任であることに変わりは無い。
ここが落ちては元も子もないのだから、当然である。
曹操はただじっと、我が子・曹丕を見つめ次の反応を待った。
子の親としてではなく、臣の主として。
ぎり、と奥歯を噛み締めたのが分かる。
書桌の上の両の手は固く拳が握られていた。
依然として変わらぬその瞳も、納得がいかないとその鋭い光を一層鋭くさせてこちらをねめつけている。
俄かに書桌が、だんと鳴る。
再び、曹丕がその拳を今度は言葉もなく書桌に叩きつけたのだ。
そして、踵を返すと勢いよく戸を開けて、回廊に足音を響かせながら去っていった。
彼がここまで取り乱すのには理由があった。
それは、今回の戦の相手が張繍である、ということだ。
そう、丁度一年前の正月に苦杯を嘗めさせられ、また、曹丕の異母兄である曹昂の命を奪った男でもある。
それ故、普段の彼らしからず取り乱し、”参軍する”ということに執着する態度を見せていた。
しん、と静まる部屋に曹操の声が響く。
「…それでは各々、場に戻り任を全うせよ。参軍するものは準備を怠るな。六日後の早朝に出立する。遅れるでないぞ」
「「「「「は」」」」」
場の全員が拱手し頭を下げる。
そして、各々戸に向かって下がり始めた。
下座にいた戯もまた、他と一拍置いてから身を引いたが、そこへかける声があった。
「、話がある」
それは曹操以外であるはずも無い。
立ち止まり、部屋を後にする先進たちを見送り、戯はただじっと待つ。
最後に夏侯惇が退室したところで、部屋には曹操、戯、許褚が残った。
「虎痴、悪いがそなたも席を外してくれぬか。と二人きりで話がしたいのだ」
「では、軍備に当たっていますだ。何かあれば直ぐにお呼びを」
「うむ、任せたぞ」
一礼して身を引く許褚。
目が合って、すれ違い様お互い軽く会釈をする。
気配が遠ざかるのを確認して、いつの間にか戯に背を向けていた曹操が再び口を開いた。
「そなたも此度は子桓と同じく、参軍したかったのではないか?よ」
普段と変わらぬ語調でそう問う。
「どんなお話かと思えば、何を突然。異な事をおっしゃる」
戯が苦笑交じりに答えれば、曹操は戯を振り向いてその瞳を真っ直ぐに見据えた。
「そなたが望めば、此度の戦、子桓と共に参軍させても良い。仇討は、己が手で下してこそ本懐を遂げると言うからな。どうだ?」
「それは有難いお言葉ですが…」
暗に、断りの意をこめて一度目を伏せる。
それを見て、曹操は僅かに目を見開いた。
「ほう、それは何故だ?申してみよ」
「…恐れながら、愚見を申しますと、物に本末あり、事に終始ありとも申します。物事には根本と枝葉があり、始めと終わりがあるということです。なれば、自然、物事には優先すべき順序というものも存在するでしょう。先の戦で散っていた者達の仇討が、枝葉であると言うわけではありませんが、今の情勢に軍を動かし主公が天子様のおわすこの都を空けると言うのであれば、当然それを守るものが必要となります。それは誰でも容易に理解しうることでしょう。だからこそ、主公は我らに都の守備をと命を下したのではありませんか?そして、私をその任の1人に就けた。それも理由があってのことでしょうし、また、それを私は間違っているとも思いません。理に適う命にどうして背く謂れがありましょうか。亡き者に報いんとするは、敬するべきに値するやもしれませぬが、哀しいかな、我らは今生きてここに在るのです。今、この中華の情勢を慮るに、些かも予断を許せるものではありません。なれば、無きを尊び、在るを蔑ろにするは現実的とはいえぬでしょう。足下が無くなれば、目指す道があったとしてもどうして進むことができましょうか。それ故に、都への賊の侵入を防ぎ、天子様をお守りし、主公が安心して出陣できるよう、また都へご帰還召されるように留守を仰せつかるのです。どうして私情をはさめましょうか。どうか、私のことはお構いなき様に」
拱手して頭を下げる。
見えぬ頭上から、曹操の溜息が聞こえた。
じっと待つ戯の頭に曹操の言葉が降る。
「面を上げよ、」
戯はその言葉に従い顔を上げる。
同時に、曹操の声。
「まったく、そなたは言葉もここも固過ぎだ」
顔を上げきると、同時に直ぐ目前にあった曹操の人差し指が戯の額を軽く小突く。
条件反射で思わず目を瞑った。
曹操の言う”ここ”とは間違いなく頭のことだ。
小突かれた額をさすりながら曹操の方へ視線を上げると、むすっとした顔で腕組みをして戯の方を見ていた。
窓から差す光が室内を明るく照らす。
風が吹けば、まだその肌に冷たさを感じたが、連日の晴天で外の雪はすっかり解けていた。
曹操がその口を開く。
「二人でいる時は敬語は無しだといっているのに、まだ直らないのか」
「…そう言われましても、私は主公の臣ですから、やはり言葉を蔑ろにはできません」
眉尻を下げて言う。
曹操はそんな戯の反応を見てますます顔をむすっとした。
「俺は構わぬといっているのに」
口を尖らせて言う姿は、とても不惑を過ぎた人には見えない。
「臣であるということが、言葉の自由を奪っているのであれば、いっそそなたを罷免しようか」
「…それでは主公にお仕えすることが出来ません…」
「臣ではなくとも、助言はできると思わぬか?」
「……」
今度は、戯が顔をむすっとしながら曹操を見る。
曹操はと言えば涼しい顔をして戯を見ていた。
しかし、途端、ふっと表情を和らげると口元に笑みをのせた。
「まあ…今暫くは据え置こう。ところで、。先のそなたの話は、先刻の子桓にもいえると思うか?」
表情を変えずに曹操が言う。
戯は僅かに目を見開くが、直ぐさまそれをおさめると肩の力を抜きながら口を開いた。
「先程の言葉は何より自分に対しての言葉だったのですが、そうですね…子桓様を臣として見るか、或いは子脩殿の弟して見るかで変わってくるのではないかと」
視線の先の曹操の瞳は次の言葉を促す。
「前者ならば恥ずべき行為と言えますが、後者であれば一概にそうとは言えないでしょう。寧ろ…」
「人の子であれば当然、だろうな。まして、あいつは11を数えたばかりだ。俺があの歳の頃はまだ好き勝手遊んでいたわ。感情を抑えろと言う方が無理であろうな。だが、子桓には悪いが今の世でそんなことも言ってはおれん。……」
「はい」
「子桓のこと、頼むぞ」
それは、曹操の真摯な瞳と共に発せられた。
思わず口篭る戯。
「臣の主として、子の親として友であるに頼む」
益々言葉をなくす戯に曹操が再び口を開いた。
「だめか?」
戯は瞳を閉じてふうと息を吐き出すと、一度口を噤んでから瞳を開けた。
「まったく、主公は本当にずるい。頼むと言えば、断るわけも無いのに尚、”友”と付け足すとは」
「心外だな。俺は心からそう思っているぞ。だからこそ、そなた一人をここに残して頼んだのだ。それにならば、安心して子桓の事を頼める。上手く抑止してくれるだろうしな」
覗き込むような目でこちらを見てくる曹操のそれに、戯はその言葉と視線の指す意味を読み取って訝しんだ。
「…まさか、子桓様とてそこまでは」
「甘いな、。あれは俺の子だぞ。何を考えているのかぐらい大体の予想はつく、行動を見ていればな」
「…」
「頼んだぞ、」
戯の肩に手を置いて真摯な眼差しを送る曹操を、戯は僅かに視線を上げてその瞳を見つめる。
暫くして、瞼をを閉じると、同時に、すっと胸の前で両手を組み拱手して頭を下げ答えた。
「承知、仕りました」
雲は残るが快晴といえる清清しい空。
しかし、それと相対して許の宮城内の広場には武器を手に鎧で身を包んだ兵士たちが辺りを黒々と埋め尽くしていた。
金属のぶつかり合う音がひしめく。
曹操は馬上の人となると、馬首を返しずらりと居並ぶ重臣たちの顔を見渡して、そして言った。
「では各々、留守の間任せたぞ」
「「「「はっ」」」」
皆一様に拱手して返答する。
最前列に立つ戯もまた、彼らと同じように拱手して答えた。
その反対側、最前列から一歩下がった所にいる曹丕も同じだ。
平素と変わらぬ表情。
数日前のことなど無かったかの様な。
曹操はちらりとそちらを一瞥してから馬首を再び返す。
自分を見上げてくる何万もの兵士たちを見渡して無言のまま右手を高く上げた。
それを合図に、軍の先陣を行く部隊が前進を始める。
そして次の部隊、その次の部隊といった様に順々に門をくぐった。
三分の一の兵が減った頃、曹操もまた前進を始める。
傍らには、許褚と夏侯惇の姿。
では行ってくる、そう言い残して門の向こうへと消えていく。
城に残るものは皆、その後姿が見えなくなるまで拱手して頭を下げ続けた。
ぐっと伸びをして空気を吸い込むと、どこからか梅の花の香りがした。
戯は宮城内の回廊を正門に向かって歩く。
既に太陽は南中にあった。
「(さて、そろそろ兵舎に顔を出して…の前に)着替えるか」
官服の袖と裾を見てぽつりと呟く。
兵舎には様子を見に行くだけだが、恐らく行けば兵たちに指導することもあるだろうし、それならばこの服では些か問題がある。
剣や槍を振るうのにこれでは動きにくい。
戯は今、校尉という官位についている。
袁術戦後、その功績により都尉からの昇格を果たしていた。
といっても、武官職なので有事以外の仕事は特にない。
強いて言うなら、預かる700人ばかりの兵の練兵だ。
だが、戯にはもう一つ兼職が与えられていた。
こちらは文官職で普段は殆どこちらが本職のようになっている。
しかし、その職務に明確な官職名はついていない。
というのも”補佐”という役目だからだ。
司空軍祭酒補佐。
――つまり、郭嘉の補佐だった。
いわば見習い、のようなものである。
文官職についてはもう少し吟味する、というのが曹操からの言葉だ。
司空府は、官吏の不正の取締りに当たる機関である。
その頂点、司空に就いているのが曹操。
不正を行った官吏の最終的な処分を下すのは曹操である。
軍祭酒―軍師祭酒ともいう―はそれまでのいくつかの処理の内の一部を担当していた。
今日も先程まで竹簡の整理をしていたのだが、そこに居る筈の郭嘉が居ないというのは、いつものことであった。
相変わらず空は朝からずっと晴れている。
だが、数刻前から強めの東風が吹いていた。
心なしか、雲も増えたように思う。
一雨くるのかな?と東の空に目をやった時である。
ふと耳に届く回廊を駆ける足音。
なんだろうと、正面に視線を戻すと向こうから兵士が一人全速力で走ってくる。
戯が道をあけようとした時、その兵士が目の前で片膝をついて拱手した。
「戯校尉!荀尚書令から、今すぐに厩の方まで来て欲しいと伝言を預かっています…!」
「…文若殿が?何があったのですか?」
なぜ荀ケが自分を厩などに呼ぶのかが分からなくて、訝しげながらそう聞き返す。
いや、ひとつ思い当たる節はある。
あるが、それは実際に起こっては欲しくない事なのだ。
どうか、それでありません様に、そう思いながら兵士の言葉を待つが、その期待は矢張り裏切られた。
「子桓様が張繍討伐に発った本軍と合流する、と…」
控えめの声音だったが、それは戯烈の心に重く圧し掛かる、
一度止めてしまった息をゆっくり吐き出しながら戯は口を開いた。
「厩、といいましたね」
「はい」
「(こことは反対側だ…間に合うか?)」
宮城内は広い。
反対側にあるということがどういうことか、それは容易に想像できる。
果たして自分が到着する間、荀ケが曹丕を止めていられるだろうか、或いは説得できるだろうか。
自分がそこに間に合ったとしても説得できるかどうかはわからない。
だが、曹操に頼むといわれているのもまた事実。
考えていても始まらない、今は兎も角そこへ行かなければ。
視線を兵士に戻す。
「この後はまだ誰かのもとへ?」
「はい、夏侯将軍にも伝えるようにと」
「わかりました、お願いします。それから、くれぐれもこのことが無闇に外部へ漏れぬように気をつけてください」
「はい、それでは」
そういうと、兵士は一礼して正門へと駆けて行く。
夏侯淵は今、兵舎にいて練兵を行っているからだ―太守の任についているが練兵は時間が許す限り自ら行っていた―
その後姿を一瞥して戯もまた駆け出す。
走るには官服の裾は長すぎて、足に絡むそれに戯は舌打ちをした。
つづく⇒
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