万物は一府、死生は同状たり





    
戯家の愚人 ― 青ニ咲ク遅咲キノ・後 ―
























「主公、でございます」



主君・曹操の執務室の、閉じられた戸の前で名乗る。
戸には格子がはめれていたが、それは戯の身長よりもずっと上の位置であったので中を覗くことは出来ない。(例え身長が届いていたとしても、諜報の者でない限りは中を覗こう等と誰も思わないだろうが。)



2月もそろそろ終わりを告げ、蝋梅に取って代わるように、桃が庭のあちこちで咲き乱れていた。
風が吹けば若干の冷たさが未だ感じられたが、しかし、確実に春は訪れているようだ。甘いような、何ともいえない優しい春の香りが辺りを包む。


「入れ」




その一言だけが中から返ってきた。
声の主は無論曹操である。

失礼しますと断りを入れて戸を開ける。
自分の足元よりやや前の方に落としていた視線を上げると、直ぐ目の前に曹操が立っていた。
意表を衝かれ、次に瞬きをした時にはいつの間にやら部屋の中に、曹操の腕の中にすっぽりと納まっている。
慌てて離れようとするが、できない。




「と、主公!人が来ます…!」

「無事で何よりだった!余り心配させるでない」

「…主公」




尚も、ぎゅっと抱き締めてくる曹操。
発せられた言葉に戯はただただ恐縮した。

がしかし、今の状況はなんとも居心地の悪いものである。
万が一、兵や女官に見られでもしたらそれこそあらぬ噂がたちどころに広まってしまうだろう。それではまずいと、腕に力を込める。


「主公、そろそろお放し下さい」
だが、曹操の力は緩む気配がない。


「俺はもう暫くこうしていたいが?」
そう言って尚抱きしめ続ける曹操に戯が一言。





「聞いてません」






ぴしゃりとそう言い放つと、曹操は力を緩め身を引いた。

「冷たいな、は」
「冷たくて結構」




先ほどと変わらない声音に、多少の呆れの意をこめて答える。
ふっと優しい風が部屋の中に流れ込んだ。





先ほどとは打って変わって真剣なものに変わったそれに戯が顔を上げる。
目が合うと、次には曹操が頭を下げた。




「すまない」

驚いてうろたえる戯
「と、主公、何を突然…」

「そなたの言葉にしっかりと従い早くに引き上げておれば今回のような結果にはならなかった。少なくとも子脩も死なせずに済んだ筈だ。…すまなかった」



未だ頭を下げ続ける曹操に戯がうろたえながらも声をかける。

「っ…主公、まずは頭をお上げ下さい」


それを聞き、曹操がすっと頭を上げる。
その瞳は戯の瞳を見据えていた。
もまたその瞳を見据える。



「――確かに、今回のことは未然に防げたものである事に変わりはありません、あの時の言葉をお聞きくださればこのような結果は招かれなかったでしょう。
ですが、それは過ぎたことです。これを胸に刻み、次に生かしてくださればこのことについて私からは何も言いませんし、言う気もありません。しかし、これだけは言わせていただきます」


そこで一度言葉を区切ると、息を大きく吸い込んで背筋を一層伸ばした。
瞳は尚、曹操のそれを見据えていた。











「例えどんなことであれ、主君たるもの、そう易々と臣下に頭を下げるべきではありません。諸侯らに侮られては為せるものも為せなくなります。そのことお忘れなきよう」








拱手して頭を下げる。

それをただ見ていた曹操だったが、一拍呼吸を置くと、一歩前に出てその組まれた腕を押さえるように下へ下ろした。

が何事かと頭を上げる。腕は自分の腹の前まで下ろされていた。
その上には曹操の右手がやはり押さえる様に、しかし優しく置かれている。



「確かにそうだがな、しかし俺は俺が間違っていたと思うから頭を下げたのだ。自分が悪いと思ったから頭を下げる、間違っているか?主君であろうが臣下であろうが、人である以上そう思い行動することに違いなどないと俺は思っている、間違っているか?」


「…いいえ。間違っているなどと。私もそうだと思っております。しかし、世の皆が、その様な考えとはいきますまい。いや、寧ろそう思う者は少ないでしょう、特に諸侯には。であるなら、それを以って世を渡るなど、容易なことではございません。
その上、今のように乱れた世では尚更でしょう。何も、そのお考えを捨てよと申しているわけではないのです。・・・しかし主公のことです、こう申してもおやめにはならないでしょうから、せめて、公の場や人の多き所ではお控え下さい」





「――その言葉、しかと胸に止め置こう」




再び頭を下げた戯に曹操が上から声をかける。
は頭を上げると、それでも眉尻を下げてそっと微笑んだ。
それを曹操はただ見つめていたが、ふと右手を戯の組まれた手から離すと徐にそれを戯の頭に持ってきた。

くしゃりと自分の頭に手を置く曹操に、また何かふざけているのかと口を出そうとした戯だったが、曹操のその複雑そうな表情に何か思うところがあるのだと察知して、すぐにその口を噤んだ。
曹操が口を開く。





は…子脩のことで俺に何か言ってやりたいことはないのか?」



そう言われ一瞬行動の止まった戯だったが、それも束の間、直ぐに口を開いて、

「お救いすることが出来ず申し訳ないということしか、申し上げることが御座いません…」

と、瞼を下ろした。



それを見て曹操が自嘲気味に言う。
「すまん、そなたを責めている訳ではないのだ、気にするな。寧ろ、俺が責められるべきであろう」


から手を離し、くるりと後ろを向く。
それに、戯は閉じていた瞼を上げて曹操のその背中を見つめた。












「丁がな、泣くのだ。子を殺しておいて平気な顔をしている、人の親として失格だ、と。何を言っても泣き止まぬ。一度、里に返すべきかと、思っているのだ。…――情けないものだな」






















風が何処からか桃色に色づいた花弁を部屋の中へ運んでくる。
それは、ひらりと舞って床に落ちた。


(主公…)


はただ心の中でそう呟くと、曹操のそのどこか哀愁に満ちた背中を見つめていた。
曹操もまた、自分の視線の先の窓外から見える、どこか遠くの空を見つめていた。










どのくらいそうしていたか、時間にしてみればそう長い時間ではなかっただろうが、曹操が先に動いた。
徐に後ろを振り向くと、戯の元に歩み寄ってその横まで来たところで足を止める。
そして、先ほどとは打って変わって、明るい声音で戯に言った。




「…と、そんなわけで今俺は非常に落ち込んでいるわけだ。お陰で、執務にも手がつかん。そこで、。俺の変わりに机上のものを整理しておいてくれ、頼んだぞ」

「――…え?」




ぽんと肩を叩かれ、呆気にとられている隙に曹操が逃げ足早く部屋を出て行く。
はっとして気づき回廊まで出たが、時既に遅し、なんたることか、後姿すら確認することができなかった。戯は大きく溜息をつくと、これまた大きく肩を落とした。

「いろいろと、複雑な気分だ…」


そう呟くと心の中で呟いた。
無論、”馬鹿主公”と、である。
部屋に置かれた机の上にはうんざりする程の竹簡と巻物が積まれていた。

























「孟徳、済んだか?」

どこか別の方向を見ながら、当然そこにいるだろうと思っていた人物の字を呼んで夏侯惇は曹操の執務室の戸を横に引いた。
午も過ぎ、日が南中から傾き始めてから既に一刻がまわろうとしている。
いつもなら、返事が返ってきてから部屋に入るのだが、これはうっかりであった。


だが、そのことに気づく筈もない。


何故なら、今夏侯惇というこの男の頭の中には、午前(ひるまえ)に于禁から聞いた言葉しかなかったからである。
それは詰まる所、戯が今日出仕しているということだ。(なぜ、人伝にそれを聞いたのかと言えば、答えは簡単、執務により今朝の朝議には参加していなかったのである。)
正確には、それ以前のことで、身体がまだ回復しきれていないであろう時に出仕などして害はないのか、ということである。そう、つまり、心配しているのだ。


しかし、本人には”心配”しているなどという意識はない。
ほとんど無意識のうちにそう思っているあたり、随分面倒見がいいというか何というか。誰かが”心配しているのだろう”と言おうものなら、彼の性格上、恐らく否定するであろう。

ともあれ、そんなわけでどこか上の空、なのであった。







「あ、将軍こんにちは。主公ならいらっしゃいませんが…」

当然、返ってくる声は曹操のものだと疑わない夏侯惇はその返事に、いや、声に驚愕して顔を上げる。
そこには曹操の机に向かって竹簡を手に持つ戯の姿があった。
整頓された机の横にはいくつかの整理された竹簡や巻物の山。
きょとんとした表情で戯がこちらを見ていた。


、何故お前がここに!?何をしているんだ!?孟徳はどこへ行った!!?」

驚きと疑問の余り、前進しながら質問の嵐を息継ぎ無しで言い終えた目の前にいる夏侯惇に向かって、戯が抑えてというように両手を胸の前に出す。



「ま、まあ落ち着いてください。私は朝方、主公から呼び出しを受けてここに来ました。その後、逃げるように去っていった主公に書簡の整理をしろと言われまして今に至ります。あ、主公が何処へ行ったのかは私も分かりません」

これでよろしいですか?と乾いた笑みを浮かべる戯に夏侯惇はそれを聞いて落ち着く為にも大きく息を吸い込むと頭を手で押さえてこれまた大きな溜息をついた。



「全く、孟徳のヤツめ、一体何を考えている…!自分の仕事を放った挙句、それを目覚めたばかりのにやらせるなど!」


そう言って目を閉じる夏侯惇に戯が微笑む。


「お気遣い有難う御座います、でも大丈夫です、思ったよりもずっと気分はいいんですよ。それに、主公も気分転換をしたかったのでしょう」


そう言いながら、心のどこかで”そうであってくれた方がまだ救われる”と思ったのは戯のみが知ることである。
しかし、それを打ち砕くかのように、夏侯惇が一層呆れ果て、そしてまた、少しばかりの(?)怒りを露わに言う。



「あいつの”気分転換”は毎度のことだ」


それに戯は眉尻を下げることしか出来なかった。



「まあ、良いわ。後は俺がやっておくからお前は屋敷に帰って休んでいろ」


呆れて溜息をつく夏侯惇がそう戯に言う。
それを聞いて戯は弾かれた様に頭を上げた。

「いえ、本当に大丈夫ですから。将軍にも将軍の仕事がおありでしょうし」

「俺はもう済ませてある。それにどこに行ったか分からない孟徳を探すより、ここで待っていた方が手間もかからず賢明だろう。いいから休んでいろ」


そう言うと、座る戯の手を引いて立つように促す。
はなされるまま立ちあがると、結局部屋の外へと出されてしまった。
敷居を境に夏侯惇と向かい合う。


「大人しく休んでおけよ、孟徳には伝えておくから明日も出仕せず休んでおけ」

「しかし…!」

「言う事を聞け、そんな顔色が悪いと周りを困らせるだけだ」



抗議するように声を上げた戯に、夏侯惇がぴしゃりと言い放つ。
真顔で言われた言葉に戯がはたと言葉をつむぐ。


「え…?そんなに、悪いですか?」

「気づいていなかったのか?自分の身体のことだろうが」

「すみません」


呆れて顔に手をやる夏侯惇に、謝る戯
それに溜息をついた夏侯惇が、

「お前が謝るな」
そう一言告げた。

その後、再び謝罪の言葉が返ってきたのは想像できたことであったが。
それでは、と戯が踵を返して回廊を行こうとしたとき、夏侯惇がそれを引き止める。
当然、戯は足を止めた。その場で振り返って、もう一度夏侯惇を見やる。








「色々と気にしすぎなのだ、お前は。しかも、お前自身がそれに気づいていない。一人で溜め込むのは勝手だが、それはもう少し落ち着いて自分の気持ちを整理してからにするんだな。でなければ、周りに要らぬ気まで遣わせるだけだぞ」






そう言う夏侯惇に、ただ戯は困った風に眉根を寄せて見つめ返すことしか出来なかった。
完全に日陰となった回廊を風が通り抜ける。
流れた空気は肌寒さを感じさせた。


「風邪をひくなよ」


一言残して部屋の戸を後ろ手で閉める。
今や、戯の眼前には部屋の戸しか映ることはない。
はその戸を暫く見つめていたが、やがて踵を返して回廊を歩く。
頭の中で、先ほどの夏侯惇の言葉が響いていた。
































宮城の石の敷かれた広場は影を作るものなど何もなくて、その白い石の反射する光はすこぶる目に眩しかった。
日向に出れば、やはり陽はぽかぽかとして、どこか眠気を誘う。

夏侯惇に言われて大人しく引き下がることにしたが、かけられた言葉に迷っていた。
昨日、目が覚めてから暫く、己の中でこうだと決めて決心したと思っていたのだが、人に指摘されて戸惑っている自分を思うと、やはりどこかでまだ気持ちが治まっていないのだと認めざるを得ない。



―――ただ、安定を求める余り押し付けていたのだと。


于禁や曹操の態度はそれに基くものではなかったのかとさえ思えてくる。
そういう節が無かったとは言い切れないからだ。
大きく溜息をつくと額に手をやった。


(駄目だな、私もまだまだ…。テメェのこともわからないとは)


吊り上げられた口端は自嘲を乗せて。

ふと、視界の端から端を右へ向かって一匹の蝶がひらひらと舞っていた。
それをなんとはなしに目で追うと、間も無くその視界に人影が映った。
額に当てていた手を外せば、見えたその人は昨日も会った人物で。


「子桓様ではありませんか。どうなさいましたか?その様なところに立たれて」



笑みを交えてそう声をかけると、曹丕は暫くじっと戯を睨んでいたがふっと視線を外すと踵を返して、宮城を正面に広場の右奥に見える回廊へ向かって歩いていった。

少し、いつもと様子の違う曹丕に疑問を覚えて、戯はその後を追う。
なんとなく、後について来いと言われている気もしたのだ。

視線の先の、その11を数えたばかりの小さな背はどこか震えている気がした。































宮城内にいくつかある他に比べれば小さな中庭で曹丕の足が止まる。
もまたそれに倣って足を止めた。





「俺は兄上を許さない」



背を向けたまま、ふいに発せられた言葉に戯は視線をあげた。

怒気の含まれた言葉。
しかし、その真意が分からず、戯は黙って次の言葉を待った。

庭に咲く桃の花弁が舞う。
青空に桃色がたゆたう。




「俺はのことが好きだ。だから、を苦しめる兄上が許せない・・・!けど、俺は兄上のことも好きだ。―…何で兄上が死ななければならなかったんだ!俺があの時のと代われたら、がこんなに苦しまなくて済むのに!俺があの時の兄上と代わることが出来たなら、兄上は死なずに済んだのに!!俺は無力だ!」





突風にあおられて、桃色が飛び散った。

発せられた言葉は悲痛な叫びで。
どうしようも出来ない、その現実にぶつけられた叶うことも叶えることもできないただの願い、その叫び。
そして、ただそこにあるだけの事実。




「子桓、様」

視界を遮る前髪を右手で押さえる。
強風は未だ続いて、こちらを振り向いた曹丕の髪をさらう。
心なしかその瞳は潤んでいた。









「だから俺は強くなる、誰よりも強くだ!が苦しまないように、を苦しめないように、これ以上誰にも負けないように、誰よりも強く!俺が俺自身のために!のために、そして、兄上の、子脩の分もだ!」










強風にかき消されることのない大きな声。
そして、大きな意志、固められた決意。

仁王立ちのそのまだ小さな彼は、しかし紛れもなく成長著しい一人の大きな意志抱く漢。強固な眼差しは強い輝きを秘めて。



は一度目を閉じ再び開けると声を張り上げずに言う。


「はい、子桓様。――私も…」

そこで区切ると再び目を閉じる。
しかし、最後は曹丕には聞こえなかったのか、問いただされることもない。



(私も、強くあろう。もう揺らがない、あの決意はこの決意と共に)



遠く空に目をやれば舞い散る桃の無数の花弁。
どこからか、季節外れの蝋梅のあの芳しい甘い香りが漂ってきた気がした。



















つづく⇒




 いい訳とか↓(拍手有難う御座います!根気よくここまで読み続けて下さり本当に有難う御座います・・・!



や、やっと書き終わった…!長かった!!毎度の事ながら文もおかしかった!!!(グダグダ書くからだ
お待たせいたしまして申し訳御座いませんでした;
どうやら曹丕が一人称を変えたようで…。
というか、曹操との絡みが大変多いこの連載ですけど、別に曹操夢ってわけじゃあないんですよね‥←
この人なら素でこうしそうなんで勝手にやらせてるわけですが(電波発言自重
おまけに今回は口調のことは見送ったようですニコ
背景の写真は蝋梅じゃない気がするんだが、ま、いいか←
ていうか、もう9月も終わりに近づいてますね…早いですね…
もう、最近どうやったら人間が分裂できるだろうかとか、わけの分からないことばかり考えております(頭ダイジョブカ
クローンとかなんでもいいから自分をあと3、4人増やしたいです←
そうじゃなかったら、寝なくてもいい、疲れないサイボーグとか生命体とかになりたいです(帰って来い

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も、本当に読み続けてくださってる方々有難う御座います…!