人生は朝露の如し





    
戯家の愚人 ― 青ニ咲ク遅咲キノ・前 ―
























『すまない・・・子脩殿・・子桓、様』




























うっすらと視界がひらける。
徐々にはっきりとしてくるその先には見覚えのある天井。
今の今まで見ていた、暗がりに浮かぶ満月と人の顔ではない。


ならば、夢を見ていたのか?
いや、違う。


牀榻に横たわったまま首を右に向ける。
誰が開けたのか、2尺ほど開いている嵌め殺しの格子がついた戸。
目に飛び込んでくるのは、その格子越しに広がる突き抜ける青と庭に咲く蝋梅。
融け掛けの雪が点々と白く残る。


耳に届く雪の融ける音と、屋根の上の雪融け水が庇から落ちて地面を打つ音。
寒さが遠ざかってゆくことを知らせる一つの兆し。
2羽の飛び交う目白が、それを後押しするように囀り合う。









首を元に戻し、再び天井を見つめる。
徐ろに、身体を起こした。
思いのほか重たい身体に戸惑いつつ、直後に襲われた眩暈に思わず手で顔半分を覆う。それと共に、徐々に蘇る記憶。









今まで見ていたのは夢ではなく、事実だ、と。









その手を放し手の平を見つめれば、見えるのは曹昂の流した朱。
未だ彼を抱いていたという感触も温もりも、最期のときのあの圧し掛かる様な重さも鮮明に記憶している。

握り拳を作り、苦しさに潰れそうになる胸に押し当てた。
何度も何度も胸の中で呟く。
すまない、ごめんなさい、ありがとう、貴方の分まで生きます、と。
その死も、遂げられなかった生も背負えるもの全て背負って生きます、と。
































華やかに色付いた桃の花咲く枝を一本手に、戯の屋敷の回廊を小走りに進む。
ここ毎日通い詰めているのは曹丕だ。

今日こそ目を覚ましてくれる、そう信じて戯の寝室へ急ぐ。
風を切って進めば、未だ幾分冷たい空気が耳をかすめて既に赤くなっていた耳を更に赤くする。内城からずっと走ってきたお蔭で上がった息は、しかし、数日前までとは違い白く残ることは無い。


目前に見えてくる寝室の戸。
2尺ほど開いているらしいそれに閉め忘れていたのかと内心しまったと思ったが、それも一瞬のことで、今は兎も角戯の顔を見たくてその開いた戸から顔をひょっこり出して中を覗きこんだ。






















「子桓様・・・!?」




急に現れた気配に、はっとして顔をそちらに向けると、開いた戸からこちらを伺う曹丕の顔が見えた。
驚いてその名を呼べば、曹丕もまた驚いた顔で、しかし徐々に笑顔に変わって戸を勢いよく開け広げる。

そうして戯に向かって走り出すと、一丈半ほどの距離を一気につめて戯に飛びついた。
それを戯は両の腕で受け止めると、彼がするようにぎゅっと抱きしめる。
微かに桃の香がした。




!よかった、目が覚めて・・・!」

「子桓様・・わざわざ、このの所に見舞いに来て下さったのですか?」

「当たり前だ!あまり心配させるな・・・!」

「申し訳御座いません」




そう笑みを交えて優しく答える。
ふと、その視界の端に見覚えのあるものが目に留まる。
それは、曹丕の帯紐からさげられたあの翡翠の小さな玉飾り。
再び胸の苦しさに襲われて、瞼をゆっくり閉じてもう一度心の中で呟いた。


”申し訳御座いません”と。


半分は曹昂へ、そしてもう半分は曹丕へ。
暖かな風が頬を撫ぜていった。











































「おう、坊主。もう身体はいいのか?」


そう声をかけたのは于禁。
は大分、と答えてその気遣いの言葉に礼を述べた。


曹丕が戯を見舞いに来たその翌日。

は曹丕から一ヶ月近く寝ていたと言う事実を聞き(この時に初めて、庭に残る雪と蝋梅が季節はずれだということを知った)、内心焦りながら久しぶりの朝議にしかし、時間ぎりぎりになって顔を出した。
出仕するということを事前に誰かに言っておいたわけではなかったので、目を覚ましたということを人伝に知っていたにしてもその場に居た殆どが、驚きや心配の顔を向けてくる。

それもそうだろう、長い間目を覚まさずにいた人間がやっと目を覚ましたその翌日に、しかも早くからの朝議に顔を出すとは思いもしないはずである。
しかし、戯は出仕してきた。
一様に向けられたその視線に、戯は心配をおかけしました、どうぞ始めてくださいと述べて先を促した。


そうして半々刻程の朝議も終わり人もまばらに散って行く中、于禁のあの言葉に戻るのである。
部屋から出てまもなくの事で、まだ部屋から出てくる人たちの邪魔になると判断した二人はどちらともなく回廊の隅による。

「しかし、まあ目が覚めてよかったよかった。医者は大丈夫だといっていたが、あれだけ寝ている時間が長いと疑いたくもなるもんだ」

言いながらうんうんと頷く。

「すみません、ご迷惑お掛けいたしたみたいで…」

そう于禁の言葉に頭を下げて謝る戯
それに、別に謝ることじゃねぇだろと、于禁が戯の肩をバシバシと叩いた。




「あの…」


「ん?何だ?」


于禁が疑問符を浮かべる。
そんな于禁を暫く見つめ何かを考えているようだったが徐に目を閉じると、

「……いえ、なんでもありません」

と、小さく一度首を振りながら、結局戯は何を告げるでもなく口を閉ざした。






「何だ、おかしなヤツだな。聞きたい事があったらなんでもこの文則さまに聞いてくれて構わないんだぜ」

そう言って于禁が自分の事を親指で指しながら胸を張る。
はただ苦笑いを浮かべた。
人影もまばらになっていく中、回廊の隅で話をする二人に一人の兵士が近づいてくる。二人は気づく様子もない。



様」

そうして横まで来ると、戯に声をかけた。
くるりとそちらを振り向けば、頭を下げている兵士の姿。
何か、と戯が問いかける。


「主公がお呼びで御座います、執務室まで来い、とのことです」

「左様ですか、直ぐに伺いますとお伝え下さい」


そこまで聞くと兵士は一礼して小走りに去っていった。
は于禁の方を振り向くと眉尻を下げて言う。

「主公から呼び出しのようです」
「みたいだな。ま、無理はするなよ。本当ならもう数日は大人しく寝ていた方がいいんだろうからな」
「気をつけます」


そう言って微笑む戯を于禁がじっと見つめる。
何かと、小首を傾げると、于禁の手が伸びてきて、がつっと頭に乗せられた。




「あまり気にするなよ、子脩様のことも典韋のことも他のことだって坊主のせいじゃない」

言って半ば乱暴に数回頭を叩かれる。
離れていく手と一拍おいて顔を上げる。




「…そんなに気にしていないですよ、皆と同じ気持ちです――」


そうしてもう一度柔らかく微笑むと一礼だけしてその場を後にする。
残された于禁は、髪を整えながら回廊を歩いていく戯の背中を見送っていたが、暫くすると自分も今日の執務をこなす為に戯の歩いていった方向とは逆の方向へ回廊を歩いていゆく。

庭を一匹の蝶がひらひらと舞っていた。





















つづく⇒




 いい訳とか↓(毎回、拍手有難う御座います!)



ってことで、例の如く前後に分けました;
区切るつもりはなかったんですが、書き終えてみたら酷く長かったので、ね・・・
なんだかここ最近、2ヶ月に1回更新すら危うくなってきているというのに、それに見合わずカウンタ回ってたり、拍手頂いたりして本当に申し訳ないです(態度で示せ
そろそろ、話の方も今のオフラインの時季に合わせたいものです(合ったら今度は直ぐに過ぎちゃうけどね←

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ここまで読んで下さり有難う御座いました!