死生命あり
戯家の愚人 ― 霙雨ニ変ワル刻・後弐 ―
城の正門。
典韋は、力を振り絞っていた。
共に戦う部下の兵や、曹安民もまた同じだった。
ふと、どこからか聞き覚えのある声がする。
突っ込んできた敵兵を己の戟で応戦しつつ声のした方をちらりと見た。
視線の先には敵兵を切り崩している戯の姿。
その彼女の手に握られた剣はどこからか奪ってきたのか、いつも彼女が使っている剣ではなかった。
官服を返り血なのか、己の血なのか、兎も角赤く染めて剣を振り上げる。
兵の血が飛び、或いは腕を飛ばしてこちらに駆け寄ってきた。
自分に背を向けた彼女は、ずっと外にいたのか己と同じく霙に濡れて、全身をぐっしょりと塗らしていた。
服の後ろ肩の部分には不自然に破けた後がある。
矢でも受けたのだろうか。
視線は周囲の敵に向けながら、己の胸の高さよりもずっと背の低い彼女に声をかけた。
「主公はどうした!?」
「ひとまず、今のところは無事に脱出させました!後のことは子脩殿に任せてあります!」
「ぬしはどうするつもりだ!?」
「ここに残って典韋殿の代わりに兵の足止めをするつもりです!ですから、典韋殿は急ぎ主公の元に向かって下さい!」
喧騒にかき消されぬよう、互いに声を張り上げて話す。
兵を切り伏せつつ話をすれば、彼女は自分の代わりにここへ来たのだという。
再び典韋が口を開く。
「馬鹿を言え!!手負いのぬしにここは無理だ!お前がわしの代わりに主公をお守りしろ!!」
また一人兵が戟にのまれる。
「だからこそです!!手負いだからこそここに残るのです!力の及ばぬ私が、主公の安全を確保できるとでも!?」
敵と対峙しながら戯が叫ぶ。
襲い掛かる敵の攻撃を剣で振り払い、隙の出来た急所に突き刺した。
「相手には頭の切れる軍師がいるのですよ、今の状態では到底荷が重過ぎます!」
「分からないやつだ、お前は!相手の頭が切れるからこそぬしが行くのだ!!」
間髪いれず典韋が叫ぶ。
僅かだが、霙の降りが強くなった。
「わしは頭を使うことなどからっきしだからな!それに引き換え、ぬしは頭も切れる!それがあれば、力不足など補えるだろう!!
主公を守る為の手立ても考えられる筈だ!違うか!?」
「っしかし・・・!」
「逃げるのか!?誓いを裏切るつもりか!?」
「そのようなこと!!!」
「ならば、ぬしが主公の元へ行き、お守りしろ!ここはわしらで食い止める!」
言いながら典韋が戟を振るう。
敵の兵が2,3人、朱を散らして地に倒れた。
と同時に、後ろを振り向く。
武を振るうにしては余りに華奢な戯の背中を典韋は複雑な瞳で見つめたが、しかし直ぐに元の敵を射抜く強い眼差しに戻すとその後ろ襟を掴んだ。
ふっと視線が浮き、戯の目線が典韋のそれと同じ高さになる。
まるで首根っこを掴みあげられぶらさがる猫のようだ。
「て、典韋殿!?何を・・・っ」
きっと滑稽な絵面なのだろうと頭の片隅で思えば、なんとなく耳まで真っ赤になる。
しかしそんな戯を尻目に典韋が口を開いた。
「直ぐにここを突破させてやるから、主公の元へ急げ。わしも無事に合流できた暁には、一度手合わせ願おうぞ」
言うや否や、戯を掴んだその腕を後ろに引き、投擲の格好を取る。
そうして、敵兵の頭よりずっと高く、そしてその集団よりも遠く戯を空へ投げやった。
「っ典韋殿!」
空中で鬩ぎあう見方の兵や、典韋を見やる。
そして、それを囲む敵兵も。
逆様の世界で戯は、なんとしても曹操と合流すると心に決めると、身体を反転させて着地した。
後ろを振り返る。
距離もあって敵の後ろを確認することしか出来ない。
ただ、そこで戦をしているのだという音だけは耳に届いていた。
こちらに数名の敵が向かってきていたが、戯は典韋や他の者達に悪いと思いつつもただ目的の場所に向かって走った。
ここで彼らを切り伏せに行こうが、待ち伏せて切り伏せようが恐らく典韋は喜びはしないだろうから。
だから兎も角、戯は曹操と合流する為にも、まず厩へと向かったのだった。
顔に霙が激しく当たる。
戯は馬の速度を上げながら外門に向かって駆けた。
受けた毒と霙によって冷えた体が体力の限界が近いと警鐘を鳴らす。
ズキズキと太腿と肩の傷が自分の鼓動に合わせて痛んだ。
それに追い討ちをかけるように目が霞み、視界が狭まる。
何度か遠のきそうになる意識を必死につなぎ止めて、先を阻む敵を切り伏せた。
遠くまっすぐに視線をやれば、そこには大きな外門の影。
燃える内城の一角の炎と月明かりに照らされ僅かにその姿が確認できる。
そして、その向こうに見えるのは蠢く影と月に照らされた薄暗い闇。
恐らく主公はここはひとまず突破できたのだろうと頭の片隅で思う。
子脩殿と共に。
段々と門の影も大きくなり、やがてその影を潜り抜ける。
そして、こちらに気づき向かってくる数多の人影。
蠢いて見えた影はやはり敵の兵だったと確信に至り、剣を振るって道を開く。
門を潜り抜けてまもなく、ふいに前方に別の蠢く影の塊が目に入った。
その一つがこちらに気づき振り返る。
出来た隙間から僅かに見えたのは、
「子脩殿!?」
声に気づき、影が一斉にこちらを振り向く。
戯は迷うことなくその影に馬で突っ込むと、体制を低くし腕を伸ばして曹昂の身体を馬上へと引き上げた。
「っ・・・、殿?」
意識があることに戯はひとまず胸をなでおろす。
しかし、僅かの間に垣間見えた傷の量と突き刺さる矢の数にそう悠長にもしていられないと勝手に落ちてくる瞼をきっと吊り上げた。
「主公はこの方向で合っていますか?」
後ろに跨る曹昂に伺えば、視線の端で頷くのが確認できる。
「わかりました。つらいかもしれませんがしっかり掴まっていて下さい、子脩殿」
「・・ッすみません」
「いいえ」
曹昂が腰にまわした腕に力を込めるのが分かると、戯はその左手を己の左手で握り返して馬に手綱で鞭を打った。
もたれかかる曹昂の息遣いを背中に感じる。
だが、それは本当に微かなもので今にも消えてしまいそうだった。
なぜ、あの場で彼が倒れ、そして敵に囲まれていたのか。
なぜ、彼は彼の馬に乗っていなかったのか。
そして、その馬は何処へ行ってしまったのか。
戯はそれを直接曹昂に聞きはしなかったが、それは先ほど見送った”絶影の屍”によって、ほぼ確信に近いであろうその出来事を物語っていた。
それはつまり、曹操の愛馬である絶影が負傷したことにより逃げ切ることが難しくなったのだろうということ。
それにより曹昂が自分の馬を曹操に差し出したのであろうということ。
そして、そのために曹昂が数多の敵の攻撃から完全に逃げられなくなったのだということ、だ。
曹操が未だ無傷でいるのか、曹昂が矢を受けたのが馬から下りる前なのか後なのか、それらの詳しいことは分からないが、恐らく大まかな流れはそういうことなのだろうと、戯は馬を走らせながら頭の中でそう整理した。
霙に濡れる事によってどんどん奪われていく体温と体力に気を使いながらも、何より後ろに跨る曹昂を気にしながら薄暗く照らされた闇の中を駆ける。
間も無く光の届かぬ黒い林へ差しかかろうとしていた。
もう駄目かも知れない、とそう思った瞬間視界がぐらりと揺らいで世界が反転した。
指先に僅かだが、人のぬくもりを感じた。
地面に身体がたたきつけられる。
速度の落ちぬままの落馬による大きな衝撃と痛み。
だが、もうほとんど感覚など無くなっていた。
朦朧とした意識の中で木々の黒い縁取りのずっと遠く、黒い空に浮かんだ月を眺める。
遠くで自分を呼ぶ声、近づいてくる蹄の音。
近くにある筈のその声と音は、もう殆ど聞こえなくて、本当に遠くから叫ばれているかのようなそんな小ささ。
朧げな夜空と月だけの視界にふっと青い色がぼんやりと浮かぶ。
焦点の定まらない瞳でただそれを見つめて、そうだ、殿と父上の下へと合流しようとしているのだった、と思い出した。
ならば、この微かな黒でも月の白でもない色の塊は殿だ、と。
一向に見えてこない、顔と思しきその場所に腕を伸ばした。
「っ子脩殿!しっかりなさって下さい!!」
そう戯は叫び、駆け寄り、そして曹昂を抱き起こすと近くの木の幹に凭れ掛けさせた。
衫の裾を引き裂いて腕や足、肩の傷を覆う。
本当ならばもっと早くにやっておくべき処置だったが、敵の数が多すぎて出来ないでいた。
戯志才が遺していた衫であったが、この数時間だけで既にただのボロきれとなってしまっている。
戯自身の受けた傷もどうやら開ききって血が止まっていないようであったが、そんなことは頭から抜けていた。
朦朧としていた意識も、曹昂のこんな場面にあってはどこかへ飛んでしまうのも当たり前だ。
己の余りの無力さに嫌になりながらも、とりあえずの応急処置を済ませた。
ふいに、曹昂の腕が己の顔に伸ばされているのに気づく。
その手を両手で掴んで曹昂の顔の横に戯は自分の顔を近づけた。
何かを話そうと口を動かしているのが確認できたからだ。
「すみ、ませ・・・、殿・・・」
「いいえ、お気になさらず・・・伝令を飛ばしておきましたから、じき援軍と合流できます、主公ともきっと合流できるでしょう」
微かに口を動かし、声を発する曹昂に戯は悲痛な眼差しでそう答えた。
否定したいのに、今己の目の前に居る曹昂の全てが、もうどうしようもない所まで来ているのだと戯に教える。
ただ、ぎゅっと曹昂のその手を握り締めることしか出来ない。
「こ、っんな、状況に・・ならなきゃ、・・・・伝える、ことも、出来な・・なんて・・・私は、本当に・・っ駄目、だな・・・っ」
「!駄目です、それ以上喋ってはっ・・!」
はっとしてそう叫ぶ。
傷に響いて僅かに眉を顰めた。
「、殿・・・ずっと、・・・っ貴女のこと、思って、いました」
「・・・・・!」
そう言う曹昂の瞳は焦点が合わなくて。
戯は曹昂はもう目が見えていないのだと悟る。
どうしようもないこの状況にただもどかしく思う。
「・・・殿には、押し付け、る、こと・・・ばかり、で・・・・申しっ訳、な・・のですが・・・」
言って震える右手で懐を探り出す。
間もなく出てきたのは玉の小さな飾りだった。
赤い紐で結ばれた、透き通るような翡翠の小さな玉飾り。
「ど、か、これ、を・・子桓に、渡してっ、下さい・・・・っ」
言って震える手で差し出すそれを戯が受け止める。
何度も、何度も頷いて。
「わかった、わかったから、もう喋るな・・・!もう・・・」
ただ俯く。
曹昂の手を握る己の手に自然と力が入る。
体力の消耗によるものだろう、ふと視界が揺らぐ。
と同時に、曹昂が戯の身体を自分のほうへと引き寄せていた。
咄嗟に右手を木の幹につく。
弱弱しい、力とも言えない力で曹昂が戯の身体を抱きしめる。
左手には玉飾りと曹昂の手の感触。
耳元で曹昂が息も絶え絶えに囁く。
「ずっと、・・ずっと、好きです・・・見守って、います・・あなたにまた、・・・・っ会える、時、まで・・・・・・・・・・・あ、り・・・が、と・・・・・」
曹昂の左腕から、ふっと力が抜けて回されていた戯のその背中から滑り落ちる。
戯の左の手の中に玉飾りだけが残って、曹昂のその右手は力なく地に落ちた。
左肩にはずしりと曹昂の頭が凭れかかる。
呼吸音もなければ、まして肩の上下動もなく、僅かに伝わっていた鼓動も感じられない。視線をやれば、見えるのは穏やかに目を閉じた曹昂の顔。
視界が揺らぐ。
体力の消耗によるものではない。
ただ、思考が止まって、脳を強く揺さぶられたかのような視界の揺らぎ。
「子、脩殿・・・?」
返事はない。
「子脩殿・・・!目を、目を覚ませ!子脩殿!!・・・子脩殿」
返ってくる筈も無いと、分かっているのに呼ばずにはいられない。
何度も、何度も呼んで、ただ戯のその叫びだけが虚しく闇に吸い込まれた。
ふと耳に届く遠くからの蹄の音。
それは戯たちが来た方向からだった。
はっと顔を上げてそちらの方を向き耳を凝らす。
「(追手か・・・一人じゃない、複数だ)」
身を隠さなくてはと、左手に持っていた玉飾りを右手に預け、その右手で曹昂を支えながら、馬の方を振り向く。
「来い」
手を差し伸べてそう声をかける。
それに答えるかのように馬が戯のもとへと歩み寄った。
「いい子だ」
そう言って手を伸ばし、手綱を引いたその瞬間、己の身体に起きた違和感に気づく。
「(なんだ・・・?)」
手綱を握ることが出来なかった。
力が全く入らない。
感覚も鈍くなり指先まで完全に麻痺しているようだった。
何故ここにきて急に・・・。
その事実に愕然としながらも、しかし悠長にはしていられないと馬を茂みまで誘導し、しゃがませる。
そして己は曹昂を抱きながら大きな木の幹の陰にじっと身を潜め、息を殺した。
蹄の音が段々と近づいてくる。
林の木々に守られ気づかなかったが、霙は雨に変わったようだ。
しとしとと木々の葉の間を雨粒が降ってくる。
愈々、蹄の音は戯たちの3丈程まで近づいて、物陰からでも十分その姿を確認できた。
「(・・・10人程度、といったところか・・・)」
だが、その馬に跨る主たちは戯たちに気づくことなく、そこを物凄い速さで通過する。
遠のく蹄の音に内心胸を撫で下ろすと抱いていた曹昂を、そっと地面に寝かせた。
懐に玉飾りを仕舞いつつ、きょろきょろと辺りを見渡せば、視界にとまる一本の木。
その根元、根に覆い隠されるように開いた大きな穴。
戯は視線を戻すと、曹昂の身体を何とか抱き上げその穴へ歩を進めた。
穴に曹昂を寝かせる。
木の根が上手く敵の目から隠してくれるだろう。
そう思いながら、戯は今はもう目を開くこともない曹昂を見つめた。
「子脩殿とは恐らく違う意味だが、私も子脩殿のことは好きだ。あれは必ず子桓様に渡そう、必ず主公とも合流しよう。
そして、最後まで主公を守り通す。また貴方と・・・胸を張って、貴方に顔を合わせることが出来るように。だから、それまで・・・」
顔の前でそっと手を合わせる。
根の狭い隙間から身体を滑り出してなんとか馬に跨った。
「暫しの間、お別れだ」
馬腹を蹴れば馬が走り出す。
後ろは振り返らず、右手で手綱を握り締めて先を行く。
林を抜けた先は、未だ月に照らされる夜の帳が下りていた。
雨は情愛もなく、ただ深々と降り注ぐ。
濡れていたのは、世界か大地か、それともそれを映し出す人の瞳か、それは誰にも分からなかった。
ただひとりを除いて――。
つづく⇒
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