往く者は諫む可からず、来る者は猶追う可し
戯家の愚人 ― 霙雨ニ変ワル刻・中 ―
息が白い。
当たり前といえば当たり前のことで、雪こそ降ってはいないが空には重たく雲が立ち込めていた。
月を隠す其れはその明かりまで遮って地上に闇をもたらしている。
所々、蝋燭に灯された部屋からの幽かな明かりが暗い回廊を僅かばかり照らしていた。
大きくはない足音が、回廊に人がいることを告げる。
足元を気にしつつも、心ここにあらずといった面持ちで、ある一室を目指して戯は回廊を歩いていた。
「(宛に来て今日で六日目、主公があの未亡人とよろしくはじめて四日目か…)」
大きく溜息をつくと目の前には白い塊が出来て直ぐに消えた。
ふと仰ぎ見て目に入る、雲と認識の出来ない何処までも続く黒い空。
今の戯の心の中を表していると言っても過言ではなかった。
「(初日の時点で既に不安要素があったというのに、ここにきて新たに問題浮上。
全く、主公は何を考えておられるのか・・・いや、このようなことを言っても意味が無いのだろうが。
しかし、取り返しのつかない問題が起きてしまう前に、主公には許にお帰り頂く様進言せねば。
回避できる問題ならば回避することに越したことは無い、出来れば特に信頼の置ける数人の耳にも入れておきたい)」
しんと冷え切る寒さに肩を窄める。
どこかで犬の遠吠えが聞こえた。
「(・・・が、名目は主公の側近とはいえ、やはりそれはただの名目。私自身に未だ明確な官職が無い事に変わりは無い。
おまけに、まだ私を信用していない人もいるし。
果たしてそんな人間の言うことを聞いてくれる人がいるかどうか・・・。
可能であるならば、それなりに力のある人にこの言葉を代弁してくれる様頼むのが一番手っ取り早いんだが・・・誰か居たか?)」
左手で右肘を支えながら、その右手を顎に当てて考える仕草をする。
天を仰ぎ見ても、そこに見えるのは僅かに垂木と梁の輪郭が見て取れる天井だけ。
首を捻りながら目を瞑って考えてみても、どうにもこうにも、こういう時に限って思い浮かばない。
そんな戯が顔を上げるのとその足が回廊の曲がり角に差し掛かったのはほぼ同時だった。
がつっ
「――〜〜〜っ」
ふいに何かに思いっきり鼻を当てた。
当たったときの衝撃と併せて数歩後ずさり、声にならない悲鳴を上げてがらにも無く涙目になりながら鼻を押さえる。
そこに行き成り壁が出来る筈もなく人に当たったのだと理解してしかし、その硬さに疑問を覚えつつ痛みを堪えて口を開いた。
「す、すまない・・・」
「私の方こそ申し訳ありません、大丈夫ですか?」
素で出た言葉はつまり余裕が無いことの証。
そんな戯の頭上から降り注いだ声は聞き覚えのある其れ。
ふと、顔を上げれば相手も其れと気づいて小さく声を上げた。
「し、子脩殿・・・!」
「殿!」
お互い同時にその名を口にする。
まだ痛む鼻を押さえる戯に曹昂が駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!?」
「へ、平気です・・・ちょっと痛い、ぐらい、で・・・」
どう見たって平気そうに見えないのだが、戯はそう言って左手で曹昂を制す。
曹昂はあたふたと戯の様子を伺っていたが、やがて持ち直したのか、戯が曹昂に向かって口を開いた。
「すみません、少々考え事をしていまして、前を確認しておりませんでした」
曹昂の正面に直りそう言う傍ら、なにが硬かったのかという事実を知って納得した。
鎧に当たったのか、と。
「いえ、私も少し考え事をしてまして、前方不注意でした・・・殿はどちらへ?」
「えぇ、ちょっと…子脩殿の方こそ……もしかして、主公、ですか?」
その言葉に、曹昂は目を僅かに見開いた後頭を掻いた。
「わかりますか?」
「ええ、なんとなく・・・ですが、何故?」
そう戯が言うと曹昂は困ったように眉根を寄せて口を開いた。
「・・・未だ世の情勢は油断できぬ状況でしょう?
ですから、こんな所で悠長にしているのではなく、早く許に戻り次の行動を起こすべきではないかと父、いえ、主公に申し上げよう、と」
「(ああ、この方は本当に聡明な方なのだ)」
「・・・思っていたのですが」
思わぬ言葉に一瞬、戯がきょとんとする。
曹昂はそれを見て場違いなことを思いつつも、しかし言い難そうに続けた。
「取り込み中で無理でした」
言い切った後、曹昂は、がっくりといった風に肩を落とした。
戯は察して乾いた笑いしかできない。
「それは・・・間が悪いというか何と言うか・・・」
ただそれだけ言って、お互い各々の反応をしあった。
ふいに曹昂が顔上げる。
「ところで、殿は結局どこへ行かれようとしていたのです?」
小首をかしげて問う曹昂に戯も顔を上げて答える。
「ええ、まぁ、子脩殿と同じです。主公の元へ参ろうとしていたところです」
「そうだったのですか・・・しかし、今申したとおりですし、後でまた、ということに・・・?」
「いえ、駄目元でこのまま言ってみるつもりです、それに・・・」
「それに?」
戯の区切った言葉を曹昂がその意を知る為聞き返す。
戯がその後に一つ頷いてから言葉を続けた。
「それに、こう悠長にもしていられない・・・少々気に掛かる事がありまして」
曹昂が小首をかしげる。
先ほど聞いた犬のものか定かではないが再び遠吠えが聞こえた。
曹昂の投げかける視線の意を解して戯はゆっくり瞼を閉じ、そして開くと他に人の気配がない事を確認してから声を小さくして話し始めた。
「張繍の軍師として動いているあの、賈文和という男・・・彼の目を見ていると、どうもこの降伏には裏があるように思えてならないのです。
直感・・・というのもあるのですが、どちらにせよ余りここに長居していては危険だ、と。
別に典韋殿他虎賁の者達の警備が手薄だというのではないのですが、ここにいる期間が長ければ長い程”もしかしたら”の可能性が高くなると思うのです。
それに、あの頭の切れる軍師のこと、少しの綻びでも見逃すことは無いでしょうし、利用しないわけがありません。もし、そんなことになったら・・・」
自然眉間に皺のよる戯を曹昂は感心しながら見ていた。
そして、戯の話すその危険性に気づかされてもいた。
はっとしながら戯が顔を上げる。
「すみません、このような勝手なこと」
「いいえ、構いません。それに最悪を想定して動くことは最善の行動だと私は思いますし」
首を横に振り、そう言う曹昂に戯は眉尻を下げながら、しかしどこか安心したような笑みを返した。
そうして二人が分かれたのはそれから間もなくのこと。
それとなく典韋に注意を促しておいて欲しいと言うことと、この話は無闇に広めないようにと曹昂に口添えをして。
長い回廊を進んだ先に見えてきた部屋からの灯り。
それを確認して戯は襟を正した。
背筋を一層伸ばし、一度部屋の前で足を止め一つ深呼吸すると口を開いた。
「戯で御座います」
そう声を張り上げたものの、室内からは何も返ってこない。
ただ、夜の静けさだけが辺りを包む。
しかし、気を凝らせば、確かに人の気配はするのだ。
無視されているのだろうか?
そんな事を考えつつ、もう一度声をかける。
「主公、で御座います。火急にお耳に入れたき議が・・・」
言葉の途中で静かに扉が開く。
そこに現れたのは意中の人ではなく、背の低い歳若い女官だった。
自然、戯の視線は下に注がれ、女官は戯を見上げる。
女官が口を開く。
「公はここには居られません」
そう彼女が鈴のような声で言う。
確かに彼女の背後、垣間見える室内を見れば曹操の姿も、また鄒氏の姿も見えなかった。
どうやら、彼女はこの部屋の掃除といえば聞こえはいいが、片付けをしているようである。
直ぐにその女官に視線を戻し、僅かに微笑みながら戯が問う。
「主公はどちらへ?」
「湯浴みへ参られました」
間を置かず返ってきた答えはそれ以前の事を想像すれば当然と言えば当然の行き先な訳で。
暫くの間の後、戯は女官に一言、礼を述べてから再び歩を進めた。
即ち、現在曹操がいると思われる、その湯殿へ。
歩む速度と共に冷たい空気が耳を掠めていった。
寝室のある棟とは別の棟へ回廊を渡って行く。
他の棟とは違い、回廊を渡って直ぐ正面に扉が目に入る。
その扉の左右には一人ずつ女官が立っていた。
先ほど部屋の掃除をしていた女官よりも、そして戯よりもまた年上のようだ。
戯が女官の一人に声をかける。
「主公に火急にお耳へ入れたき議があって参りました。お取り合わせ願いたい」
「公は今湯浴みをなされておいでです。後ほど改めてお取り合わせ下さい」
間髪入れず、女官がそう答える。
こう来ると想定していた戯は再び取り合わせ願うように口を開こうとすると、それを予想外に遮って室内から声が掛かった。
「入っていいぞ」
曹操の声だった。
まさか本人がしかも、室内から声をかけるなどという事を想定していなかった戯は、一瞬目を見開く。
しかし、直ぐに平常に戻ると一言断ってから女官の手によって開けられた扉をくぐり室内に入った。
背中で扉の閉まる音を聞く。
湯の蒸気により暖まった室内は、室外とは比べ物にならないほど暖かかった。
大きな浴槽を囲むようにその周りには薄絹の帳が回らされている。
それを通してうっすらと一つの人影が確認できた。
即ち、曹操であろう。
どうやら、鄒氏は一緒ではないらしい。
辺りを見回しても他に人影は見当たらなかった。
「どうした?。一緒に入りたかったのか?」
浴槽の縁に肩肘を預け、背を向けた状態でしかし、頭だけこちらに向けてけろりとそんな事を言ってのける曹操に戯が声を上げる。
「違います!」
「そう恥ずかしがるな」
大きく溜息をつく戯。
曹操はただ笑っていたが、再び口を開いた。
「で、何の用だ?わざわざここまで入ってくるぐらいのことか?」
言われて、戯は改めて真剣な眼差しでその背中を見る。
両膝を床について拱手し、言う。
「外の者のお人払いを御願いしたく」
「・・・いいだろう」
そう言うと、曹操は続けて外の女官たちに呼ぶまで他で待機しているように声をあげ指示を出す。
間もなく、二人分の気配が離れていく。
戯は、この場に自分と曹操の気配だけが存在していることを確認すると礼を述べた。
「で、何の用だ?」
その言葉に、一呼吸置く。
組んだ手は胸の前のまま、曹操の背中に向かって口を開く。
「もう、ここですべき事は済んだ筈です。主公には明日明後日にも、早急に都へお帰り頂きたく進言しに参りました。どうか、ご決断を」
言って頭を下げる。
天井からの水滴が水面に落ちる音がした。
曹操が背を向けたまま言い放つ。
「俺はまだここですることがある、明日明後日になど帰らんぞ」
「主公!」
声を荒げる戯に曹操は口端をあげてふっと静かに笑う。
その表情は戯に見えることは無いが。
「俺はまだ宛の全てを楽しんでおらん、それで帰れるわけが無い。わかるだろう?」
そう振ってくる曹操の言葉に戯は怒り心頭といった面持ちで上げた顔を前に突き出して叫ぶ。
「わかりません!そもそも、今天下は乱れ各々が勝ち残ろうと謀を巡らしているような状況なのですよ!?それを・・・」
ふいに、曹操が右腕を上げて戯の言葉を止める。
帳越しにそれを確認して戯は言葉を止めた。
訝しげながら、その上げられた腕を見る。
「・・・何ですか?」
「敬語は無しだ、言っただろう。忘れたのか?」
その言葉に、戯の血圧は一気に上がる。
「今そのような事を言っている場合ですか!」
しかし、そんな戯の言葉にも気にした風など一切見せず、再び曹操が言う。
「従わぬのなら、話は聞かん」
「・・・・っ!!!!」
見えはしなかったが、戯にはその時曹操は笑っているのだと分かっていた。
そう、あの悪戯小僧のような表情をして。
この際話を耳に入れてくれるのならばそれでいいと、戯は諦めて、普段通りの口調(と言っても普段も殆ど敬語口調なのだが)で話を続けることにした。
「っ何より、気に掛かるのは張繍の下で軍師として動いている賈文和という男。主公も気づいている筈だ!あの男の瞳には油断してはならないものが見え隠れする・・・このまま、ここに居続ければ危険性が増すのは必定。何かが起きるてからでは遅いのだぞ!それなのに何故、都に戻ろうとしないのか・・・主公!」
身を乗り出して言う戯に、曹操が無言のまま顔をこちらに振り向いて右手を動かし近くに来るように指示を出す。
戯は指示を出されたとおり、しかし意味の分からぬまま帳のすぐ近くまで歩んだ。
未だ血圧は上がったままだ。
「もっとだ」
そう言って曹操は戯に、暗に帳の中へ入ってくるように言う。
戯は戸惑いながらも、眉間に皺を寄せたまま右手の甲で薄絹をはらって中に入った。
そして、浴槽から一番遠いところで身を低くする。
しかし、またしても曹操からの言葉。
「もっと近くだ、ここまで来い」
言って、今度は身をひねり戯の方に向き直ると浴槽の縁に両腕を乗せ、うち左腕に自分の顎を預けて右手で”ここまで”と自分のすぐ目の前にあたる場所を指差した。
戯は曹操の意図のつかめぬまま、そこまで歩む。
それを確認して曹操は口元に笑みを浮かべながら、右の人差し指だけを上下に動かして座るよう指示を出した。
戯が両膝をつく。
自然、曹操を見下す形になる状況に戯は居心地の悪さを感じながら口を開いた。
「何ですか、こんなところまで呼んで」
半ば呆れて言うと、曹操は無言のまま、それはそれは素晴らしいぐらいの笑顔を作った。
戯は意図がつかめず眉を顰める。
次の瞬間、戯の体は傾いていた。
曹操が思いっきり戯の左腕を掴んで自分の方に引き寄せたのだ。
「っな・・・!」
咄嗟に右腕と右足に力を入れバランスを取ろうとするが、無理なわけで。
おまけに、その右腕も曹操の左手によって掴まれ他に抗う方法など残っていなかった。
水面に落ちる僅かな間に戯は心の中で思いっきり叫んだ。
馬鹿主公!!
と。
それまで二人の話し声以外、静かだった空間に水のはねる音が響く。
水面に落ちたときの衝撃で波紋がいくつも連なったが、間もなく水中からの衝撃による波紋もそれに連なる。
勢いよく水面上に肩から上を出し、戯は息を吸って曹操にくい付いた。
「何やってんですか!!」
「いや、頭を冷やしてやろうと思ってな」
「冷えるわけ無いだろ!お湯で!!」
「そうだったか?」
「当たり前だ!!」
けろりと言ってのける曹操にどんどん血圧の上がっていく戯。
いつのまにか自分の腰に曹操の腕が回されていることに気づき、半ば呆れながら戯が言う。
「・・・何やってんですか」
その言葉に、曹操は笑みを作りながら答える。
「この際だから一緒に「入りません」
言葉を遮って言い放つ。
面白くないと言った風に表情を変えながら、しかしその腕を放すことのない曹操。
「放して下さい」
「・・・・・・」
そっぽをむいて、駄々を捏ねた兒童同然に応じようとしない曹操に戯は再び呆れる。
水滴の落ちる音。
「主公」
「・・・・・・」
「主公」
「一つ、言うことを聞いてくれたら放してやる」
言って、こちらに視線だけ送ってくる曹操に渋々と言ったように重い口を開く。
「何ですか?」
聞いて曹操が顔をこちらに振り向く。
何かとんでもないことを言うんじゃないかと思いながら次の言葉を待つ。
曹操の口が開いた。
「字で呼べ」
一瞬凍りつく。
そんなこと出来るわけないではないか、と。
「どうした?」
どうした、じゃなくて。
額に手を当てながら戯が言う。
「出来るわけないでしょう、主公は主公です」
「何故だ?元譲も呼んでいるではないか」
「将軍は別格です」
「ならば、今だけ」
そう言って懇願してくる曹操に戯は困り果てる。
しかし、いつまでもこうしているわけにもいかないので(今現在、曹操に腰をつかまれ身体が密着されてる状態)やっとの思いで言葉を出すと言った。
「今だけですよ」
「うむ」
一呼吸して心を落ち着かせる。
曹操が期待の目でこちらを見ているのが分かった。
若干目を逸らしながら、結局首まで僅かに逸らして意を決する。
「・・・・・・・・・・・・孟・・・徳・・様」
曹操が残念そうな顔をしたが、首まで逸らしている戯には分からない。
「”様”はいらん、”様”は」
その言葉に反応して戯が顔を正面に向ける。
「そこまで出来るわけないでしょう!」
「仕方ない、今回はこれで我慢してやるか」
そう口を尖らせて言う曹操に、戯は心の中で”今回は、ってなんだ”と突っ込む。
ふいに曹操が視線をこちらによこす。
「それから、最初会ったころの話し方のほうが俺は好きだぞ」
「知るか、そんなこと」
「そうそう」
頷く曹操を戯は分からないと言った風に見る。
いい加減放して欲しいと言えば、意外とすんなり曹操はその回していた腕を放した。
やっと解放された戯は浴槽の縁に手をあてて上がる。
曹操から少しはなれた所で衣服に含まれた水を絞った。
「、お前の言ったこと、頭に入れておくぞ」
「入れておくだけじゃなくてちゃんと考えろ・・・」
言って、乱れた髪も整える。
そうして一言断わって湯殿を後にした。
曹操の寝室のある棟から大分離れた棟の回廊で何度目かのくしゃみをする。
濡れた身体に冷え切った外気はかなり堪えた。
回廊を歩きながら未だ真っ暗な空に目をやる。
ふと前から人の気配がした。
そちらに視線をやれば、件の男の姿。
見るからに皮肉なことを言いそうな、口元と顎に髭を生やした男。
「おや、戯殿ではないですか」
「賈殿、こんばんは」
微笑んで答える。
お互い距離を保ちつつ回廊で足を止めた。
「わしのことは文和で構いませぬよ」
「なれば、私のこともとお呼び下さい、文和殿」
「では、遠慮なく殿と呼ばせていただこう」
ひとしきりの挨拶を終え、お互い微笑み合う。
再び賈詡が口を開いた。
「それよりも、殿はいかがなされたのか?頭から全て濡れておられるようだが」
「えぇ、少々・・」
「と、言われると?」
先を聞いてくる賈詡に戯は渋々と言った風に笑みを浮かべて答える。
「池の辺で大きな猫と戯れましてね、おかげでこの様です」
言って両の腕を広げ、その袖や、裾を見せる。
賈詡は驚きながらそれを見やった。
「この時分に、猫と水浴びですか。さすが愚殿ですな、おっとこれは失敬」
「いえいえ、愚でなければそのようなこと、誰が致しましょう。どうぞ、お気になさらず」
そう、戯が笑顔を作る。
この二人、今はお互いに笑顔を作っているが、陰では火花の散り合いである。
「ゆめゆめ風邪には注意なされませ」
「愚は風邪をひかないと申しますから大丈夫でしょう。しかし、お心遣いは感謝いたします」
「確かに、そう言いますなぁ」
声を出して笑いあう。
どこかで犬の遠吠え。
「しかし、あれですな、こうしてみると殿は噂とは違ってかなりの好青年のようですな」
「そうですか?」
どうやら、漢中の方まで自分の噂が広まっているらしいが、性別までは定かではないらしい。
もしかしたら、わざと言っているのかもしれないが、この際どちらでも構わないし、男と間違えられているのならそれはそれで好都合なので戯は否定しない。
肯定もしないが。
賈詡が言葉を続ける。
「うむ、剣舞の方も素晴らしかった。また見てみたいものですな。・・・おっと、少々野暮用があるので、わしはこれにて」
「足を止めさせて申し訳御座いませんでした」
「いやいや、こちらこそ。身体には気をつけなされよ、失敬」
言って賈詡が自分の横を素通り回廊を進む。
戯は顔だけ振り向いて、その背中を見送った。
やがて、戯も回廊を進みだす。
お互いの偶然による、限られた時間内の会話。
最中の目の動き、色、そして声調。
僅かなものだが、二人の心中の印象を決定付けるに足りるものだった。
即ち、”侮れない”と。
戯は、心の中の不安を愈々大きくさせ、油断は少しも許されないと呟いた。
賈詡もまた改めて対策を練り始めていた。
雲の立ち込める暗い夜の話。
つづく⇒
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