戯家の愚人 ― 昂ミヘ ―
雪のちらつく昼下がり。
宮城の回廊を両の袖に手を突っ込みながら戯は歩いていた。
そういう作法なのだが、例えそれが無かったとしても、そうしていただろう。
どうせなら、回廊全てに壁でも作ってしまえばいいのにと、思ったのは戯以外誰もが知らぬところである。
夏は夏で要らないと思うだろうが。
さて、戯が今この回廊を歩いているのには特に深い意味は無い。
長い長い昼休み中なので、その間に宮城内を少し散歩しようと思ったのだ。
無論、自分が迷わない程度に。
昼休みが終われば、午後は曹操の第三嫡子、曹丕の剣術の稽古につくことになっている。曹操直々のお達しによって。
この第三嫡子というのが、また舌を巻くほどの腕前で、数えで11だというのに大の大人を負かせてしまうほどの腕を持っていた。
流石は曹操の息子というか何と言うか。伊達に戦場へ同行している身ではないというか。
普段そういうところは見せないのだが、しかし、そんな彼にもどうしても勝ちたいと思っている相手がいるらしく― であるが、矢張りというか、それは彼の秘めたる思いであることに変わりは無い ―。
それは彼の兄、そう、曹昂である。
だが、この曹昂がとんでもない腕の持ち主で、戯自身それをただの一度しか見たことは無いのだが、確実に自分は負けるだろうと、そう思っている。
そんな自分が曹丕の師に務まるのか?
それは、大いに疑問を持つべきところなのだが、重ねて言えば、よりにもよって曹操直々のお達しである。
断れるわけが無い。
おまけに、曹丕自身がそれを願望しているらしく、これはもうお手上げである。
そんなわけで今日も、言い方は悪いが、渋々その任を引き受けたのであるが・・・、実は結構楽しんでいたりいなかったり。
そして、曹丕のそんな秘めた思いを戯が知っているということも本人にも内緒なのである。
この一面の白い世界が好きだ。
この荒れた世も、この白い世界のように平らかになればと、曹昂は常々思っている。
中庭を歩きながら、そこに植えられた椿に目が留まる。
大きな木にたった一輪だけ咲く椿。
暫くそれを眺めていたが、ふと、その向こう側に見える回廊を行く人影を確認して思わず声を上げた。
「殿!」
どこからともなく、ただ、きっと少しばかり離れているのだろう。
自分を呼ぶ声を耳にして戯は思わず立ち止まった。
声のした方を見やる。
回廊の右手、中庭の方へ。
目に入ったのは、中庭の池に掛かる小さな橋の向こう側に立つ人物。
よくみれば、知った人物。
曹昂だった。
戯が軽く会釈をすると、曹昂はこちらに来るようにと、手を招いた。
それを見て、どこか回廊から出られないかと周囲を見回したが、どうも中庭に入るための入り口のようなものは見当たらない。
欄干が邪魔をしていて向こう側に行くことができなかった。
仕方が無いので、いけないとは思いつつ、欄干に手をかけてそれを軸にし、飛び越えた。
ふわりと蒼を基調とした朝服が舞って次の瞬間には戯が白い雪の上に降り立つ。
白に映える蒼が、こちらに向かって歩いてくる。
曹昂はその一連の動作に目を奪われた。
まるで、自分の周りだけ時間が止まってしまったかのような、彼女の周りだけが時を刻んでいるような、そんな錯覚に陥った。
「はしたない所をお見せしまして、申し訳ありません」
戯の言葉に我に返った曹昂は、初めて彼女が自分の直ぐ目の前まで来ていることに気づいた。
頭一つ分違う彼女を見下ろしながら、平静を装う。
「いや、こちらこそ、無理を押したようで」
そう言う曹昂に、戯は微笑み返した。
雪は未だちらちらと降っているが、お互い気にした風も無く、再び戯が口を開く。
「ところで、何の御用でしたか?」
小首をかしげて問う戯に、曹昂は頭を掻きながら言う。
「あ、いえ、どうというわけではなく。偶々お姿が見えたので。…ご迷惑でしたか?」
「いいえ、とんでもない。丁度暇をしていたところです」
曹昂の言葉を聞いて、戯は自分の目の前で両の手を振って見せた。
曹昂の、そうですかという、小さな呟きに、はいと答える。
ふと、戯の視界に紅いものが見えた。
「椿…?」
その言葉に、曹昂があぁ、とそちらに首を向ける。
「丁度、その椿を眺めていたら、殿を見つけたのです」
それを聞き、戯は、ふと自分の後方に見える回廊を確認して口を開く。
「そうでしたか。ならば、これがなければ私は気づかれなかった訳ですね」
「いや、そういう訳では…!、あ、じゃなくて…」
そう言って何故か焦る曹昂の行動に戯は口元を押さえながらくつくつと笑って見せた。
そんな戯を見て、曹昂自身も可笑しくなり、笑い出す。
白の中に蒼と青が並び、そこに一輪の紅が一層の彩を添える。
ただ、その空間だけが、色のある世界。
「それにしても、この椿は、本当に一輪だけしか咲いていない様ですね」
「その様、ですね」
戯の言葉に、曹昂が椿の木を一通り見やって答える。
深緑に白を乗せたその木には、同じく白を乗せた紅というのはたった一つしか見当たらなかった。
「咲き遅れたのか、それともそういう年回りであったのか、どちらにせよ、一輪だけ咲く椿というのも悪くないものです」
「私もそう思います」
不思議と穏やかな気持ちになりながら、戯の言葉に賛同する。
「満面の椿も、綺麗だと思いますけどね」
そう微笑む戯を、曹昂は目を細めて見つめた。
「紅も…」
「え?」
問い返す戯に、曹昂が笑みを作って言う。
「紅も似合うと思いますよ」
そう言って朝服を指差す。
戯はその意味を理解して、自分の朝服に目をやった。
これは、兄戯志才が用意していた朝服の内の一枚で、全部で三枚ほどあるのだが、しかし、どれも装飾は違えど蒼を基調としていることに変わりは無かった。
「そう、ですか?」
「はい」
「でも、紅なら、奉孝殿の方がお似合いだと思いますけど」
視線を中空にやりながら答える。
そう言うのも、郭嘉が常日ごろ身に着けている朝服が赤基調が多いためなのだが。
「なら、奉孝殿と紅で揃えてみては如何です?女官たちが喜びますよ、きっと」
言って、笑う曹昂に戯が食い掛かる。
「冗談!女官たちの勘違いに困ってるぐらいです。まぁ、逆に男と思われている方が色々と危険回避できますが…しかし」
そう、女の嫉妬程恐ろしいものは無いのだ。
まして、女官たちに大人気の郭嘉様だ。
自分が女だと女官たちに知れたらどうなることか考えただけでも恐ろしいが、今、一つの噂となりつつある勘違いもまた恐ろしいものだった。
「私と奉孝殿が龍陽とはまた…」
そう言って溜息をつく戯烈に、曹昂は乾いた笑いしかできなかった。
郭嘉が知っているのかいないのか、まぁ、彼なら逆に面白がりそうだが。
「そ、そういえば、殿も今度の張繍征伐には従軍するのですか?」
話題転換も含め、気になっていたことを聞く。
戯は顔を上げると、曹昂を見て首を横に振った。
「いいえ、従軍せよとのお達しは来ておりませぬ。子脩殿は?」
頷いてみせる曹昂に戯は意を解すると、言った。
「なれば、存分に功をお立てにならねば…しかし」
そこで言葉を切った戯に疑問符を浮かべて曹昂が見返す。
戯は曹昂の横を通り、一輪だけ咲く椿の前まで歩むと、歩を止めてその椿にそっと触れた。
「恐らく、此度の城攻めは、無血開城となりましょう」
それに、曹昂がはっとして戯を振り向く。
「何故、その様にお考えに?」
手を下ろしつつ、しかし振り向かずに戯が言う。
「先の戦で、主公は荊州を治めておいでです。そして、そこには精鋭たる青州兵がいる。他にも要因はありますが・・・張繍といえど敢えて負けの見える戦に挑むことは無いでしょう。そう思いませんか?」
くるりと振り向きその目を真っ直ぐこちらに向けながら問う戯に、曹昂が面食らう。
何ともいえない強さを宿した光がその瞳の奥にちらつく。
何も言えなくなる。
「す、すみません!浅はかな意見を…今のはお忘れ下さい」
そう焦りながら戯が頭を下げる。
曹昂は微笑みながら言う。
「いや、父上もそうおっしゃっていた。だからきっと、そうなるのだろう」
顔を上げた戯の目の前に曹昂の笑顔が見える。
「凄いな、殿は。私は父上の足元にも及ばないというのに」
「そ、そんなことは…!」
慌てた風に表情を変える戯が目に入る。
どこか遠いものを見つめるようにそれを見る。
そう、足元にも及ばない
何もかもが及ばない
だから、どんな努力だってしよう
そして、いつかその日が来たら
至らない私だが、せめて
この思いだけでも告げようと思う
それまでは、どうか、今のまま
変わらぬ日々が続くことを
「!!」
元気よく叫ばれたその声の主に、戯が反応する。
曹昂も弾かれたように後ろを振り返った。
そこに見えたのは、今まさに欄干に手を掛けそこを飛び越えて駆け出す弟。
そう、曹丕だった。
見る見る近づいて、そして、次の瞬間には戯の左袖を掴んでいた。
「探したぞ、何をしてる!早く!稽古に行くぞ!!」
そう急かしながら戯の袖をぐいぐいと引っ張る。
そんな曹丕の後ろから曹昂が声をかけた。
「子桓、元気だったか?」
くるりと曹丕が振り向いて、しかし戯の袖を掴んだまま言う。
「はい、兄上もお変わりありませんか?」
「あぁ、この通り。この後は殿と稽古なのか?」
言って笑顔をつくる曹昂に曹丕が短く答えた。
「はい」
「そうか。どうだ、私も教えようか?」
その言葉に曹丕も笑顔で答える。
「いいえ、兄上には明日改めて手合わせ願います。空いていますか?」
「執務が終われば迎えに行こう」
それに曹丕は満面の笑みを浮かべると、戯の袖を一層強く引いた。
まだ、雪はちらついていた。
「さぁ、も聞いただろ。明日のためにも鍛錬場に行くぞ」
言って歩き出す曹丕につられるまま戯も歩き出す。
その前に曹昂に挨拶をして。
自分の弟に拉致された戯を見送りながら、曹昂は白い中庭に佇む。
傍らに咲く椿は、先刻戯が触れたときのまま、そこの雪を乗せてただ、あった。
吐く息の白さに、まだ寒いなと思いつつ、弟の見せた久しぶりの無邪気さに思わず笑みを零しながら、子桓もまだ子供だなと思ったりもした。
これからどう成長を遂げていくのだろうとも、そして、いつか自分を剣術で超える時が来るのだろうか、とも。
ともあれ、兄として出来る限りのことはしていこうと思う。
そう、とりとめもない事を巡らせつつ、曹昂は中庭に落ちては積もり、又は消えていく雪の微かな音を聞いていた。
その後、偶々通り縋った女官の話によると、かなりの量の雪をその頭に積んでいたとかいないとか。
つづく⇒
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