― 雨 音 ―
「殿」
が一拍遅れて、後ろを振り向いた。
それ程大きくはないが、地面から顔を出す岩に腰をおろして、顔を僅かにこちらへ向けた。
張遼はただ立って、土手の上からそれを見下ろした。
雨が降っていた。
先程から降り始めたが、風は、然程強くはなかった。
ただ、ひどく雨粒の大きい、強く降る雨だった。
張遼の眼下には川が流れていた。
黄色い、大きな河の支流だった。
この川も黄色を呈していたが、本流よりはずっと、その色は薄いように思えた。
激しく荒れた様子はない。
上流ではそれほどではないのか、若しくは降っていないのだろう。
ただ、その傍らに腰掛けるの姿だけが、浮いていた。
鮮やかな、浅葱の服を纏っているからかもしれない。
降り始めからそこに居たのか、ずぶ濡れだった。
もっとも、この雨では時をかけずに、誰だってずぶ濡れになるだろう。
事実、自分もここで立ち止まったことで、衣服の重みが増しつつあった。
笠を、被っていれば話は別かもしれないが。
「張将軍」
最初、ちらりと見ただけだったが、しっかりと張遼を振り向いて、ほんの少し驚きの色を見せながらそう呟いた。
その顔にも、僅かな驚きが表れていた。
腰はかけたままだった。
「いつからここに?」
風邪をひくぞ、と言おうとしていたのに、最初に出た言葉はその問いだった。
それは、今この瞬間に至るまでに抱いた一番新しい疑問だからだろう。
の瞳を、真っ直ぐに見据えていた。
「半刻ほど前から」
もまた、張遼の視線から眼を逸らさずに、真っ直ぐ視線を送った。
また、疑問を投げかけた。
「何をしていた?」
「何も、何もしておりません。雨が降りだす前までは」
そう、は答えると、張遼から視線を外して正面に向き直った。
では、降りだしてからは?
まだ、続きがあるのだと感じて、その問いは呑みこんだ。
のぴんと張られた背中を見つめた。
「降り出してからは、雨音をこうして聴いておりました。今まで、ずっと」
まだ暫く、無言でその背中を見つめた。
続きが、まだある。
「この水面に、雨の粒が落ちてはねる音です」
めずらしい、と張遼は思った。
が、こんなにも喋るところを初めて見たからだ。
曹操に仕え始めた頃には、既にもその下にいた。
そして、政事のことが専門の生粋の文官で、遭うことすら殆どなかったが、それを抜きにしても珍しいことだと思った。
唯一、毎回居合わせる朝議でも、殆ど喋ることがない。
そもそも、声を発するところを余り、見ることがなかった。
自分が女で、そういう立場だからこそ、男が専門の政事の場では無駄な発言を慎んでいるのだろう、と張遼は勝手に思うことにしていた。
その辺りがどうであるかなど、張遼にはあまり、興味はなかった。
ただ、という存在には興味を持っていた。
最初はその存在自体にも興味など抱いてはいなかったが、暫くして新しい環境にも落ち着き始めた、そんな頃からだった。
男ばかりのあの場所で、何食わぬ顔をして遜色一つ見せずに、そこにいる。
一見しとやかに見える女が、である。
そう一度考えたら、どんな人間であるのか、興味を持たずにはおれなかった。
曹操に献策して、度々それが受け入れられているのだから、やはり才能はあるのだろう。
でなければ、あの場にいる意味が無い、曹操がそこに置いておく意味がないのだ。
よっぽど、その側女をしている方のが、しっくりくる、と思っている。
だからこそ、それ以上の何を持っているのか、興味があった。
沈黙の続く中に、水面をはねる雨の音が張遼の耳にもはっきりと届いた。
とぷん、とぽん、ちゃぷん、と不規則な音が様々に変化して耳に届く。
そうしていると水面以外にも、土や砂や石、雑草や木やあらゆるものに雨粒が弾かれる音が耳に飛び込んでくる。
ひとつとして、同じ音はない。
似ている、そう聴こえるだけであって同じ音は存在していなかった。
自分達が声を発しなければ、今ここにある音はその、雨音だけである。
雨音が、世界に満ちていた。
激しく、激しく打ちつける音が、満ち満ちていた。
なのに、その声が存在しなくなるだけで、不思議と静けさを感じた。
「こうして、この音の中にいると、まるでうつつではない所に自分がいるような、そんな錯覚を覚えます」
「うつつは嫌いか?」
その背中に問いかけた。
振り向いたの顔には意外だ、という驚きの色があった。
「そう、聞こえましたか?」
その声もまた、同じように響いた。
「些か」
張遼は短く答えた。
は、暫く目を瞬かせていたが、それも徐々に落ち着いていった。
そんなに意外な事を聞いただろうか、と張遼は思った。
そういう風に聞こえたから、率直にそう、質問したのだ。
ただそれだけだったが、本人には、そういうつもりはなかったらしい。
完全に落ち着いたが僅かに笑みをそこに浮かべて、言う。
「ならば、そうなのでしょう」
と。
今度は張遼が意表を突かれた。
何故、そうなるのか、と。
てっきり、そう思って言ったわけではない、とそういう言葉が返ってくるのだと思っていた。
なのに、返ってきた答えは、肯定の意のようだが、肯定ではなく、しかし、決して否定しているわけでもなかった。
さらりと出たその声音は、ただ爽やかに耳を掠めただけで何を思ってそう言ったのか、何も感じられない。
はぐらかした様なそんな感じもないし、感じなかった。
考え難かったが、自分の気持ちに進退つかず自嘲をまじえて言ったのだろうか、とも思ったが、ゆるりと微笑むのその表情からは、やはり何も判らなかった。
が、川の方へと向き直った。
再び、その背中を見つめた。
ぴんと張られたそれは、見ていて気持ちが良かった。
雨に打たれているというのに、何故か清清しささえ、感じられた。
「風邪を召されるぞ。屋敷まで送ろう」
最初に、言おうとしていたことだった。
は、張遼を振り向かなかった。
「お構いなく、張将軍。いずれ、戻ります」
「執務に支障を来されるぞ」
「そこまで、やわなつもりは御座いません。どうぞ、お構いなく」
「俺は、貴女が屋敷に戻るまで、ここを動くつもりはない」
話を続ける為の、口実だった。
が張遼を振り向いた。
僅かに、困惑ととれる表情が浮かんでいた。
だが、土手の下から見上げてくるの瞳は真っ直ぐだった。
「将軍が、お風邪を召されます」
「貴女が大丈夫だというのなら、それ以上に身体を鍛えている俺には何の問題も起きないだろう。違うか?」
「どんな健康な者でも油断をすれば、身体を壊すこともございましょう」
が目を伏せて、視線を落とした。
張遼はただ、見下ろしていた。
「私は、戦のことは余り詳しくはありません。ですが、小さな軍が大きな軍の隙を突き、勝利を得ることは、まま、あることです」
視線が再び絡み合った。
それ程大きな声ではなかったが、雨音で聞こえ難い、ということはなかった。
「それは、将軍が一番お分かりでしょう。将軍を慕う部下、兵卒達が多くいるのは、私も存じております。将軍が風邪など召されれば、その者達に無駄な心配させることになるでしょう。慕う者に、無用な心配をさせるのは賢明とは言えません」
違いますか、と視線で投げかけられた気がした。
張遼が、言った。
「では、その言葉そっくりそのまま貴女に返そう。油断すれば俺でも危ういというのなら、貴女もまた、その危うきに身を置いている、ということだ」
の瞳は揺らがなかった。
張遼は構わず続けた。
「そして、もし貴女が風邪を召されたのであれば、きっと主公がご心配なさる」
息を、吸った。
「部下達を侮るわけではないが、主君に無用な心配をさせるというのは、それ以上に如何なものと、俺は思う。それこそ賢明とは程遠いだろう、殿」
暫く、雨以外の音が消えていた。
視線は絡み合ったままだった。
の表情は一向に変化がなかった。
が、一度息を吹き出したかと思うと、今まで大きな変化を見せていなかったが、いきなり声をあげて笑い出した。
それは、張遼がいつか想像していた笑いとは、大きく異なっていた。
肩を揺らして、腹を押さえて、それこそ稀にしか耳にすることのないその声を大にして、しとやかとは程遠いその笑いは、しかし下品だとは思わなかった。
どこか、胸が空いた気さえした。
だが、同時に驚いていた。
まったくの想定外、とはこのことを言うのだろう。
一通り笑ったが、呼吸を整えながら、その細い指で目元を拭った。
もう片方の腕は、腹を押さえていた。
「これは、将軍に一本取られてしまいましたね。言葉を操るのは、私の方が専門だと思っていましたが」
嫌味のようには聞こえなかった。
悔しがっているようにも見えなかった。
張遼には、ただ、楽しんでいるように見えた。
が腰を上げた。
ここではじめて、立ち上がった。
張遼に向き直り、土手を数歩上がって足を止めた。
「行きましょう。お互い、敢えて暗愚になる必要など、ありませんから」
やんわりと、微笑んでいた。
張遼は小さく頷いた。
足下に注意を払って土手を登り始めたに、張遼は数歩、土手を下りて手を差し出した。
が顔を上げる。
視線が合った。
その意図を汲み取って、張遼の手にが、礼の言葉と共に、その手を差し伸べた。
張遼が思っていたよりも、の手は冷たかった。
その細く白い、色の無い手は、自分の手とは正反対で、それらが一緒にそこにあると、一層弱々しく見えた。
少し力を込めれば、簡単に壊れてしまいそうで、張遼は極力、力を込めないように注意を払った。
上りきると、どちらともなく手を下ろした。
張遼は川下に向かって歩き始めた。
の屋敷はその方向だった。
もう少し先にある橋を左手に通過して、そのまた先でぶつかる大通りを宮城に向かって右折した、そのもっと先にある屋敷だった。
「そちらではありません」
の声が、張遼を引きとめた。
背中で聞いた言葉を、張遼は訝しんだ。
振り向いて問うた。
「貴女の屋敷はこちらで相違ないだろう?移されたのか?」
は首を横に振った。
「ここからは、将軍のお屋敷の方が近いと存じます。この雨が止むまで、お邪魔してはいけませんか?」
予想外の答えであり、予想外の行動だった。
こういう話をする時の女からは、大抵そういう”色”が感じ取れた。
だが、微笑んで目の前にいる、このからは、全くそんなものは感じられない。
それは、同僚から一杯傾けよう、と誘われる時のそれに似ていた。
だから、余計に意外に思えたし、驚いた。
張遼には、ある種、無駄と思える様なこういう付き合いを、はすることがないと、先入観からではあるが思っていたからだ。
無駄、というのは、張遼自身は思っていない。
ただ、は無駄だと思っているのではないだろうか、ということだ。
実際、文官の殆どはそう思っているらしく、付き合いは無いに等しいと、どこかで聞いたことがある。
黙って何も言わない張遼に、は続けた。
「もう少し将軍とお話をしたい、と思いましたので」
自分も同じ事を思っていたからこそ、余計に張遼はその心臓を鷲掴みにされたような気持ちに陥った。
まさか、そう思っていたのを見透かされたんだろうか、と。
だが、すぐに、そんな馬鹿なことがある筈は無い、と張遼は内心頭を振った。
そういう駆け引きを、恐らく、するような人間ではない、恐らく。
「矢張り、ご迷惑でしょうか?」
が、首を僅かに傾けた。
張遼は首を横に振った。
「いや、迷惑ということは無いが・・・しかし、俺は政事のことは疎いぞ」
話をしたいと思っていた、だからその申し出は願っても無いことだと思った。
しかし、いざそう言われると、改めて考えてしまう。
いや、初めて気づかされる。
何の話をすればいいのか、と。
どんな話題を挙げれば、自分の興味を満足させる、そんな話ができるのか、と。
どんな会話をすれば、という人間の核心に至る人物像を垣間見ることが出来るのか、と。
「構いません。私は先ず、将軍から戦についてのお話を、お聞きしたいのです。それこそ、私にとっては専門外ですよ」
が笑顔を見せた。
何か、別の事を思って言っているようには見えなかった。
ただ楽しそう、だった。
それを見ていると、そんな小さなことは気にしなくても良いか、という気分に張遼はさせられた。
流れに任せていれば、そのうち自分の知りたいことは嫌でも判るだろうと。
何より、そんなことを考えて話をするのは面白くない、と思った。
「ならば、行こう」
張遼が、川上の方向へ歩き始めた。
の声を背中で聞いた。
足音がついてくる。
静かだった。
耳を澄ませば、水面をはねる雨音が、響いていた。
いい訳とか↓見ない方はスルーで
簡単・・・でもない、今回のヒロイン設定は、ページのずっと(?)下にあります。
⇒
なんだ、この全く、ときめきのない話は・・・orz
自身でも驚愕である←
そんな訳で、当初拍手お礼のつもりで書かせてもらっていたのだが、
萌もクソもなかったので、ただ書いてみた系の短編にうpしました(言葉自重
もし、満足した!っていう稀な方いらしたら、本当にただ、ありがたいと思います。
自己満足ってこえーなぁ・・・←←
2010.06
ここまで読んでくださり有難う御座いました。
ヒロイン設定(反転)>>>曹操の古馴染み。曹操が兗州刺史に任命された頃、22の時から本格的にその下で手腕を発揮し始める。年は張遼の方が、1つ上。落ち着いていて敬語口調。曹操と1対1の時意外は、あまり多くを語らず、表情も変わらない。いつも、微笑を浮かべているが、ある意味で無表情。