―  春 之 音  ―






















戸を開けると、視界に飛び込んできた室内は開け放たれた窓一面から溢れるように咲き乱れる海棠の薄桃色で賑っていた。
その甘い香りが優しく匂う。
窓から移した視線の先には、右脇に置かれた卓子に肘を突き頬杖をついてこちらに背を向けている戯の姿。
卓子の上には書き途中の書と共に硯と筆が置かれていた。
曹植は後ろ手で静かに戸を閉めると、一歩前に踏み出した。



「何か御用ですか?子建様」



穏やかな声音。
背を向けたまま、先程と変わらない格好で顔も向けずに戯がそう声をかける。
曹植は驚いてその場にぴたりと立ち止まった。



、寝ていたんじゃなかったのか…」



そう問いかけると、また声だけが返ってくる。

「起きていましたよ、ずっと」



曹植は口を噤んだ。
振り向かない戯に、その背中に再び問う。

「何故、俺だと…?」



はそこで閉じていた目をゆっくり開けると、頬杖はついたまま僅かに曹植の方を振り向いて、その表情が見えるか見えないか曖昧なところで笑みを作った。
その笑みに曹植は思わず息を呑む。




「春の音が、私に知らせてくれたんですよ」




微笑みながら言う。
視線を元に戻して、再び目を閉じた。

曹植は、はぐらかされた様な気持ちになって唇を尖らせた。
なんだかいつもはぐらかされている気がする。




「寝ていたのではないのなら、は一体、何をしていたんだ?」





甘い香りが、風に乗って鼻を掠めた。
それは本当に僅かなものだったが、室内を優しく駆けていく。



「根を詰めても、良き文など書けはしない。ですから、こうやって気晴らしのために春の音に耳を傾けていたのです」



「春の、音?」

「海棠のこすれる音や、それを啄ばむ鳥の囀り、そよ風の音色。目を閉じれば、普段は見えないものがよく見える。音や香りといったものが、私を春という世界に誘ってくれる」



曹植はそのまどろみの中にいる戯をただ見つめた。

どこか別世界の人のように思えた。
そこで初めて、戯に詩を詠ませてみたいと思った。

そうすれば、その世界が少し垣間見えると思ったから。



「さあ、子建様。子建様は私に何の相談があって来たのですか?私に何か話したいことがあったのでしょう?」



確かにそれは事実だった。
だが、どうしていつも、こうも分かってしまうのだろう、何もかも筒抜けなのだろうかと心臓が高鳴る。
今、何か声を発したら震えそうで、固く口を結んだ。






「想い人でも出来ましたか?」



心臓が跳ね上がる。
早まる鼓動で息が詰まってしまうのではないかと思うほどに。

そんな曹植とは正反対に、戯は笑い混じりに続ける。


「ただの冗談です」



言い終えるのと同時ぐらいに、曹植は徐に前に進み出て、戯を後ろから抱きしめた。
それは優しく、抵抗されれば直ぐに解けてしまうだろう程に、優しく。


――高鳴る鼓動の音がに伝わってしまうだろうか


自分でも、なぜこんなことをしたのか分からないまま、ただそっと、その左肩に額を押し当てた。
花のそれとは違う、香木の爽やかでありながら甘美な香りが鼻をくすぐって、僅かな眩暈を覚える。



「昔のように話してはくれないのか?」

顔を上げずに問うた。


「子建様も、私に敬語を使うなとおっしゃるか」



慌てもせず、ただ冷静に先程までと変わらずゆるりと穏やかに、しかし自嘲気味に戯は言った。



「父君や子桓様、皆と同じ事を申される」

「堅苦しい。もっと自由でいいと思う」

「昔、父君も私に同じ事を申されました」



僅かに腕に力がこもる。



「…もし、俺がのことが好きだといったら、どうする?」

「私も、子建様のことが好きですよ」



それはある意味で事実なのだろうけど、また、はぐらかされた気がした。

が曹植の腕に左手で触れる。
右手は頬杖をついた状態のまま一緒に抱き込まれているので動かすには制限があった。


「さあ、子建様。もう子供ではないのですから、そろそろ離れてくださいませ。私も務めを再開せねばなりませんから」




――分かっている、分かっていた

けれど、まだ分かってもらっていない――




「もう少しだけ」



今一度、腕に力を込めた。
僅かに、感じ取れるかも分らないほど、ただ小さく力を込めた。



「仕方ないですね、今回だけですよ」



笑い混じりにそういって、戯は左手を下ろした。
窓枠に目白が海棠の花を嘴に銜えてとまっていた。
徐に戯が口を開く。



「子建様、私はもういい年したおばさんですから……恋に恋などせず、もっと良い娘をお見極めくださいませ」



思わず、曹植は顔を上げた。





「まあ、だからと言って平叔のように遊びすぎるのも如何なものと思いますけど」





俺の心を理解して、言ったのだろうか

微笑むその横顔からは、それを窺い知る事は出来なかった。
”分かった”と思ったのに、思っていたのに、分からなくなった――


目白が花を落として飛び立つ。

風が強く吹いて、海棠の花びらを散らした。
室内にもそれが舞って、散る。








はこの風に散る花弁の様に、つかんだと思ったら直ぐに流れてどこかへ行ってしまうのだな」


風で舞った花びらをつかんで、手を開くとまた舞った。




が笑う。


「何ですか、それは」

言って、窓外に目をやった。
の視界には青空に散る薄桃色がまるで別世界のように広がっていた。

「きっとそれは、私のことではなくて、子建様の父君のことですよ。あの方ほど、つかみにくい人はいない」






それはあらゆる意味を含んでいるように聞こえて。
どこか楽しそうにそう告げる。



「分ってないのは、だよ」

何の脈絡もなくそう告げて、その首筋に顔をうずめた。



「子建様?」

が曹植の方へ視線を向けて呟く。
曹植は顔をうずめたまま続けた。











は、耳に届いた瞬間に消えてしまう、春の音、みたいだ」











分っていないようで分っていて、分っているようで分っていない



俺の心をつかむのに、自分は消えて居なくなってしまう

そこには確かに存在を感じるのに、つかめない音の様に実体が見えない




目を閉じたら、見えてくるだろうか




――真実の音が聞こえるだろうか






 



がそっと曹植の頭にその手で触れた。


 






それは優しく穏やかで、母の様な慈愛に満ちた

いっそ残酷なほど温かな、まるで春の音の様に――












































 いい訳とか↓見ない方はスルーで



ちょっと、上手く言葉が浮かばなかった、結果がこれです←
流れ的に「曹操←ヒロイン←曹植」みたいな感じになった気がするけど・・・
あくまで、曹操←ヒロインではないと主張してみる
もう、何も言うまい・・・。
次は、ifで楽進相手で相思的なの更新できたらいいかなー←


2010.04




ここまで読んでくださり有難う御座いました。