「遼来来!」






   
 ― 心惑ワス、アナタノ言葉 ―






















「なんちゃって?」



そう言って私の背中にしがみつき顔を覗き込んでくる娘は名を、字をといった。元の姓は董と言い、あの董卓の娘だ。
似つかないほど、彼女は見目麗しいのだが、やはり、その事実が知られればただでは済まないので、偽姓を名乗っているらしいのだ。
かつての、己の遠い遠い昔の先祖のように。



さておき、そんな彼女が董卓の娘だと言う事実は、私自身も最近になって知った事だった。
そこに、”らしい”という表現の理由がある。





それは、本当に偶然、その場に居合わせたというか。
先主の呂布殿が負け、それから今の主公、曹操殿の配下となり、過ごし始めてから暫く経っての話だ。



元々彼女とは面識があって、呂布殿が未だ董卓の軍に所属していた頃、よく話をしたりしたものだ。
彼女は董卓の後についてよく西の羌族と交友していたらしい。
その為か、馬を操るのが得意で、ことに馬上での弓射ときたら、あの呂布殿と同等以上の腕前だった。
しかし、そんな実の娘である彼女も董卓にとっては”よく出来た将”そしてただの”側妾”と変わらなかったらしく、周りに憚ることなく夜伽の相手までもさせられていた。だからこそ、私も周りの者も彼女を彼の娘だなんて思わなかったのだ。



ただの”董卓の夜の相手までも勤める悲運な見目麗しい将”だ、と。










それが覆されたのは――そう、あの官渡での戦が終わり、だが未だ天幕の張られていた時のこと。
奮戦した傍ら、彼女が負傷したと言う報せを耳にして様子を見にその官渡城の外に張られた彼女のいる天幕に訪れたときだ。





目的の天幕から少し離れた場所から声が聞こえてきたのだ。
それは、一つは目的の人のもので、もう一つは間違う事などあろう筈もない、主公のものだった。
何となく、気配を殺したまま天幕を背に、駄目だとは思いつつ、だがそれを聞く体勢に入った。


、そなた、あの董卓の娘、というのは真か?』








その時の驚きようと来たら。
だが、聞かれた彼女は驚くこともしなかったようで。







『そうですが、それが何か?』


『警戒せぬのか?』


『何故です?確かに隠してはいますが、知られてしまったのなら仕方の無いこと。それに、主公ならばきっと時も経たぬうちに知るだろうと思っておりました』



そんな彼女の言葉に主公はただ声高らかに笑っておられた。
様子こそ見えないものの、恐らく彼女に動じた風は微塵も感じられないのだろう。
主公はぴたりと笑いを止めると今までとは打って変わって厳かに仰った。







『ならば、その首この曹孟徳によこせ』
















一瞬、飛び出していきそうになったあの衝動は今でも生々しいものだ。
彼女は言った。







『もとより、この命、主公に捧げておりますれば、何時如何様にも差し出しましょう。主公の覇道をお支え出来ぬのは、些か心苦しく、残念に思いますが、しかし必要とあらば、今この場にてこの首切ってご覧にいれます』









きっと彼女の口元には笑みが乗せられているのだろうと思った。
そう、たまに、ふとしたときに見せる、あの妖艶な、しかし背筋に悪寒が走るような、あの、心とらわれる笑みだ。
普段の無邪気で、明るい彼女からは想像もつかないような。














暫くの沈黙の後、主公が仰る。


『ふん、やはり面白いやつじゃ
 首は切らなくて良い、そなたが切るべきは、わしの覇道の前に立ちふさがる敵だけで充分よ。その傷は早く治せ、今後も期待しておる』





それに彼女は短く答えた後、礼を述べた。
そして、その後、私は何食わぬ顔で二人の前に出て行ったわけだが。

























そんな事を思い出しつつ、大きく溜息をつくと、背にしがみついて顔を覗き込むままの彼女に手で払う仕草をする。
当然の如く、身長差のある彼女は、頬を膨らませながら、浮いていた足を地面にとんと着地させた。






ここは合肥城内の中庭で今は偶々、紫陽花を愛でていたいた所、気配なく忍び寄ってきた彼女に背後を取られたと言う至大なのだが。
まぁ、私の背中を取れる将は今のところ彼女ぐらいで。
だから、彼女が万が一敵にでもなったら一大事なのだが、しかし、そんなことは天地がひっくり返ってもないだろう。










私の背後にあった石に腰掛けたらしい彼女を振り返る。
案の定、彼女はそこに腰掛けながら膝に肘をついてその両手で頬を包むように顎を預けていた。
顔はこちらを見上げるように向けていて。
自然、私は彼女を見下ろす形になる。





「全く、貴女と言う人は…他の将たちにもまさか、その様であるのか?」


右手を頭に左手は腰に当ててそう言えば、彼女はけろっと言う。





「まさか!こんなこと文遠にしかしないって」


(というのは嘘で、実は他にもう一人、夏侯惇にやっていたりする。が、それは彼が大分先になって知ることである。)





一抹の不安を抱きつつ、彼女のその満面の笑みに再び大きな溜息を吐く。
そんな私に彼女が言った。




「文遠ってさ、本っっ当、鎧着てないと誰かわかんないよね」




そう面白そうに言う彼女に私は眉根を寄せながら言い返す。



「斯く言う貴女もそうであろう。今のまま赴けば、あの孫権や劉備でさえ、貴女がであるなどと夢にも思わぬだろうな」



まぁ、関羽殿は顔を知っているから、劉備は無理であろうが、孫権ならばいけるかも知れないと、何となく半分本当に思ってしまった。
そんな私を知ってか知らずか、彼女は再び頬を膨らませながら言う。



「そんなこと言ったって、顔見えにくくするために、兜被ってるんだからしょうがないじゃない。侮った敵倒したって面白くないでしょ?」



「それは、まぁ、確かに」


「でしょ?」



本当に、彼女は根っからの武人だと思う。
戦場での彼女はその素の体格が分からないぐらい鎧を着込み、頬を覆うほどの兜を被っている。
それは、相手に自分が女であると言うことを分からないようにする為のものらしい。
実際、彼女がその出で立ちで戦場に出れば女であるなど到底思えない。
彼女の凄まじいまでの武も手を貸すのだ。
私も初めて戦場で彼女を見た後に、それまで幾度となく目にしていた、朝服姿の彼女と話をした時は本人に言われるまで気づかなかったものだ。



ただ、いつも思う、彼女には城で待っていて欲しい、と。




「でも、文遠がそう言うなら、今から孫権の所にでも行って来ようかなー」




殿」




冗談に聞こえないような冗談を笑いながら言う彼女に僅かに怒気を含めて制す。彼女は口を尖らせた。



「そんなに怒らなくたっていいじゃない、冗談だってば」



「冗談でも言っていいものと悪いものがあります」



「言いだしっぺは文遠なんだけどなー」


ぽそりと呟くそれに眼光を鋭くする。






殿」



「はーい」



彼女は目を瞑りながらそう言うと、間もなく開けた。
視線を右に左にやりつつ、その包んでいる両手で軽く頬を二回ほど叩きながら何かを考えているようで。
そして、その視線を再び私に向けると切り出した。



「ねぇ」



「何です?」





「そういえばさ、文遠って聞いてたでしょ?」



最初は何だか分からなかった。




「官渡の折の主公との会話」






























「私があの人の娘っていう話、聞いてたでしょ?」



























まさか、気づかれているなんて思っていなかった。
驚いて彼女を見れば、その顔には笑みがのせられていて。



「甘いなぁー、そのぐらい気づかないとでも思った?」


片目を瞑りつつ言う。



「どれだけの間一緒にいると思ってるの?気づかないわけないでしょ?そのぐらい」



言って笑う。







しかし、私はそんな貴女の気配すら感じることができない。
そんな私を、貴女はどう思いますか?























「それで、どう思った?」







彼女から想定外の問い。
どう思ったのかなんて、それは




「些か、驚いた、が」




ただそう告げた。
彼女が聞くように、どう思ったのか、を。
しかし、これは彼女にとって想定外だったようだ。
一瞬唖然とした顔を見せる。





「それだけ?」




「これ以外にどう思えと?」


彼女は大きく溜息をついた。







「主公といい、文遠といい、変わった人ばかりね。あの人の娘、だなんて知ったら普通は生かしておかないと思うんだけど」



どうしてかなー
そんな事を呟く彼女に私は言う。





「それは殿が殿でしかないからであろう。貴女は董卓ではない、それだけで充分」



きょとんと小首をかしげる彼女を尻目に尚続ける。






「もし、貴女をその様な理由で亡き者としようとするものが居れば、即刻この手で消して見せよう。この張文遠、殿の盾となり、矛となり守って見せましょうぞ」










彼女は驚いて顎をその手から浮かせた。








「そして、もし「ちょ、待って待って!分かった、分かったから!!」




私の声を遮り、彼女はしかし、座ったまま両手を顔の前で左右に激しく振って見せる。顔は俯いているお陰で表情までは分からない。


「聞いてるこっちが恥ずかしくなってきたじゃない!わかったから、」



そう言って両耳を覆うように手を当てる彼女は頬を膨らませる。
きっと、赤くなっているんだろう、その両耳は。






落ち着いたのか、再びその両手に顎を乗せて笑ってみせる。





「それなら、私も文遠の往く先を塞ぐヤツは誰であろうと排除する。私の弓射は天下一品、でしょ?援護射撃なら任せてよね」






言ってのせる笑みは、あの妖艶な笑みで。
どこまでも調子を狂わす彼女が憎らしく思えた。
だから、少し悪戯をしてやろうと思う。













「これは自業自得だとお思いなさいませ」

















「え?」



彼女に歩み寄り、近づくとその両脇に手を入れて立たせる。
そしてそのまま、すっぽりと胸に収めた。





「え、な、何?文遠?」



戸惑う彼女に言う。






「貴女が悪いのですぞ、私の心を何処までも弄んでらっしゃる。ですから、これは自業自得とお思いなさいませ」





意味の分かっていない彼女の顎を右の手でつかみ上を向かせる。
同時に、その額に一つ、

唇を落とした。




驚いて固まり、ただ目を瞬かせるだけの彼女をそのままに、私は踵を返して回廊に向かう。
ただ、歩きながら彼女に向かって、




「今日はそれで赦して差し上げますが、もしまた、このようなことが御座いますれば今度はその唇、頂きますぞ」





そう笑みを含んで残してやった。










「え、ちょ、ぶ、ぶ、文遠!?何、今の!?ちょっと!!どういう意味!!?ねぇ!!ちょっと!!!!」
















そんな彼女の慌てた声が聞こえるが、もう知ったことではない。
してやったりとほくそ笑みながら、私は執務に戻ることにした。
余り得意とはいえない、机上の執務へ。




















さぁ、今度彼女がしくじるのは、いつのことやら。














きっと、そう遠くはないのだろうが。







































   ⇒おわり




 いい訳とか↓見ない方はスルーで


甘いね…
 うーん、甘いね
 
 
 
 
 

 
 
 




ここまで読んでくださり有難う御座いました。